「本当の海底橋をさがせ」③~赤い橋~
この橋の名は?
「海底橋」
のはずでした。
僕の中では
ネットの世界では。
どうやら
違うようです。
というわけで、一連の地続きである本稿関連では便宜上で「海底橋(仮)」としています。
いいかげんに(仮)をとってあげましょう。
この橋の名前。
素敵な名前があるはずです。
今回はその作業です。
夕やけの赤
ここから先のお話は「謎解き」です。
謎解きで使用する「謎解きグッズ」をまずはご説明します
愛川町文化財調査報告書第23集『故影拾遺Ⅱ』。
明治時代から昭和60年代までの403枚の古写真に解説を付け、203ページまとめたものです。2018年4月3日から町郷土資料館などで販売が始まった1040円の「故影拾遺Ⅱ」が今回の捜査の相棒の一人です。普通に見ているだけで楽しいです
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部人文地理学研究室の谷 謙二さんによって開発されたオンラインマップ。全国15地域について明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。収録した旧版地形図は、2,753枚にのぼります。こちらも普通に見ているだけで楽しいです
あとは、足で稼ぎます。
所轄の刑事のように
場所のおさらい
彼はいつからここにいるんでしょうか?
地図でさかのぼると
1960年代までさかのぼりました。
1960年代の地図では「橋の痕跡」のようなものが見え、1970年代から1980年代前半には橋の形がわかります。
1990年代では途中からフェードアウトしています。そして、現在までこの「フェードアウトの状態」です。
今の橋の様子を見てもわかるように、「簡易的な橋」でした。
住民の方によると、住民の人の手で作った橋で、よく大雨の日には流されていたとか。
その度にみんなで修理をしたそうです
でも、軽自動車くらいなら通れる頑丈な橋だったようですね。
1960年代の写真に見えないのは、雨で流されたからかもしれませんね
1970年代の写真では橋に沿って並行に川の流れが見えます。橋の修繕中でしょうか。
幣山地区の子供たちは、中津川対岸の高峰小学校へと通います
児童たちもこの橋をつかって通学をしていました
大雨が降ると「橋が通行止めになるから」と学校が早く終わることもあったそうです。
この橋は
幣山と箕輪をつなぐ「生活橋」です。
自然発生的にできた橋でしょう。
となると、この橋の名前は。
角田大橋などの公の橋と違い「登録名称」はないかもしれません。
さて、
いよいよ「彼」の名前です。
幣山地区を中心に多くの愛川町人に聞いてみました
「幣山橋」と答える方は少数。その答えの根拠も「幣山にあるから<幣山橋>かな?」程度
多くの方はこの橋の写真を見ると
「・・・名前なんてあったかな?」
生活に密着し、住民のみなさんで作った橋ですので、やはり「正式な名前」はないようです
便宜上、この鉄製の橋は赤く塗装していたことから通称「赤橋(あかはし)」と呼んでいたそうです。
地域の人は「あかっぱし」とも呼んでいたそうですが「赤橋」からの派生でしょう。
僕が長らく「海底橋」と心の中で呼んでいた「橋」。
実は「彼」の名前はありませんでした。
しかし、彼は「赤橋」と親しまれ、幣山と箕輪をつなぎ、住民ともに生活をしてきました。
何度も何度も大雨で流されても、何度も何度もみんなで修理をしてきた「赤橋」
やがて、角田大橋ができるとその役目を終え、今は静かに余生を送っています。
この橋の名前。
う~ん
言われてみれば、「赤い」かな
「海底橋」ではありません。
「赤橋」と呼んであげてください
「赤橋」という名前を広めてください
在りし日の彼の姿を「故影拾遺Ⅱ」に求めました。
やはり「赤橋」の写真は見当たりませんでした
が
「故影拾遺Ⅱ」136ページに「中津川と幣山集落」の写真があり、そこに注釈として「幣山の集落にむかう道には木造の仮橋があった(略)洪水で度々流され(略)堤防側は鉄筋コンクリートだった」とあるので、ひょっとしたら「赤橋」かもしれません
「ひょっとしたら」と憶測になるのは、「幣山橋」という名前の橋が別にあったのではないかと思いまして
「赤橋」から下流にも「橋」があります。
この橋は「赤橋」と同じように1980年代角田大橋完成とともに姿を消します
この橋のたもとには「石神社」があります。
「石神社」はかつて「吒天(たてん)岩屋」と呼ばれ、八菅修験第二番の行所でした。
覆殿は、16世紀に建てられた町内最古の木造建造物です。
断崖の頂には、神体の「たいへい岩」と呼ばれる巨岩があって、修験の他は登ることを禁じられていた聖地でした。
つまり、修験集落「幣山」にとって「石神社」がシンボルであり、集落の中心であったと思えば
そのすぐそばの橋を「幣山橋」と呼んだと考えるのが普通なのかなと思います。
この橋の部分が「赤橋」よりも川幅が狭く、橋を架ける理由がわかります。
江戸時代の「石神社」を書いた絵には、対岸から見ている構図があります。
石神社のすぐそばで、川幅の狭いこの部分には渡し船があり、その航跡が橋になる。
よくある話ですね。
八菅橋はずいぶん前からありましたが、距離はあります。
これが幣山へと続く「橋」であったと考えるのが妥当です。
「故影拾遺Ⅱ」にあるこの写真もこちらの橋の写真かもしれませんね
長さ的に「赤橋」だと短いかなと思いますし
とにかく
ネットの「海底橋」は「海底橋」ではありませんでした。
「赤橋」という名前のある橋でした。
となると
本当の「海底橋」はどこにあったのでしょうか?
次回「海底橋」を探す旅へと続きます
<つづく>