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水の中の宝石
こぽりと耳元で聞こえる音が、この島にやってきたことを私に伝えてくる。フィンを緩やかに動かして、私は海底を目指す。たどり着けるわけもない海の底。進んでいくにつれ肺の中の空気が少しずつ使われて、やがて息苦しくなってくる。
それでも私は海にしがみつく。ずっと一緒にいたいのに。波に遊ばれても水の冷たさに震えても、あなたのそばにいたいのに。
なんて、センチメンタルなことを思っても、息苦しさに耐えられず私はくるっと方向転換。空気がたっぷりとある場所へ泳いでいく。結局は溺れる勇気もない。思い切ってさらに底へと進むのは、安全圏で生きてきた私には無理なのだ。数年前から、ずっとそう。
「真美さん、息続くようになったねー!」
私が海から顔を出してすぐに、智則の褒め言葉が飛んできた。私の後を泳いでいた智則は呼吸一つ乱さず、白い歯を見せて無邪気に笑う。
(なんで息切れてないの、魚人かよ)
ただの人間の私は、まずは新鮮な空気で肺を満たし、ドクドクと早鐘を打つ心臓を落ち着かせる。息が持つようになったと言っても、智則とは比べ物にならない。泳いだ後はしばらく疲れて潜れないし、回数を重ねるごとに体力はすり減り潜水時間は短くなる。
スキンダイビングを知ったのは、友人の美彩と沖縄旅行を計画したのがきっかけだった。マスクとフィンのみで海の中に入り、息が続く限り泳ぎ続ける。最初はなんの拷問かと思った。
「息止めるのとか辛い。スキューバダイビングでよくない? あれボンベで息できるんでしょ?」
「スキューバはかわいく見えないからムリ」
「かわいくって美彩…...」
「いやスキンダイビングって写真写りいいからね! ビキニでやろーよ。スタッフの人が水中写真撮ってくれるって」
いわゆるキラキラ女子の美彩に連れられて、私は沖縄の離島でスキンダイビングをすることになった。結果として、友達は速攻飽きて船に戻り、そして船酔いでダウン。陸に着くそのときまで船内でビニール袋と仲良くしていた。
私はというと。
「あーちょっと息落ち着いてきた」
「あ、辛かった!?」
「うるさい魚人」
「待ってひどくない」
美彩と沖縄旅行に行ったのは4年前。初めてのスキンダイビングでインストラクターをしてくれたのが、私の目の前で「せめて人魚がいい」と騒いでいる智則だった。あれから、時間とお金を見つけてはこの島に来ている。たった1人で。
「もっと長く泳ぎたいなー」
「じゃあもっと泳ぎに来ないとね!」
「...…簡単に言ってくれるよねほんと」
褐色に焼けた肌と、海水と紫外線で色素が抜けた短い髪。イケメンというわけでもないのかもしれないが、ブサイクでもない。快活そうな雰囲気が彼の魅力を倍増させているのかもしれない。イケメンではないけど、モテそうな雰囲気がある。
「あっつ.…..」
海面から顔を出すと、頭の上から容赦なく太陽が照りつけてくる。28歳の肌に沖縄の紫外線はキツイ。じりじりと瞳すら焼く太陽は、智則によく似ているなと思った。日向ぼっこには向かない、夏の沖縄の太陽。
「ちょっと休憩しよっかー!」
智則はそう言って、私を船に促す。じっと座っていると日焼けで火傷しかねないので、2人とも船内に逃げ込み昼食の準備をした。準備と言っても、各々が買っておいた食べ物をミニ冷蔵庫から取り出すだけ。私はサンドイッチ、智則はおにぎりをかじる。
「真美さん、スキンダイビングハマったよね〜」
「んー?まぁ、そうね」
「もう何年目になる?」
「4年」
この4年で、私は老けた。年齢は24歳から28歳になり、周りの男たちからの扱いも少しずつ変わっていった。若さでチヤホヤされる時代は終わり、自分の魅力で勝負しなくてはいけない歳がきてしまった。中身なんてなにもない空っぽの自分のまま、日々確実に歳をとっている。それがたまらなく恐ろしい。気持ちは24歳のあの夏から、これっぽっちも変わっていないのに。
そんな自分が情けなく、ケラケラと私の前で笑う智則は憎たらしい。すべてお前のせいだと、口元に運んでいるおにぎりをぐちゃりと潰して頭に叩きつけてやりたい。
「もう沖縄に引っ越してきちゃえばいいのに」
「はぁ?」
「東京から飛行機で来てさぁ、嬉しいけど。ここに住めば海入り放題! どう?」
「...…そんなお金ないよ」
私がそう言えば、智則は「金かぁ、金はなぁ、大切だよなぁ」と1人で唸っている。勝手に考えていればいい。心のモヤモヤと一緒にガツガツとサンドイッチを平らげ、麦茶でミネラル補給をした。奥のほうの引っかかりはまだ消えない。
「てゆーかこの島にマンションないし」
「まぁほぼ一軒家だなー! あとはアパートがちらほら」
「一軒家とかムリ」
「まぁ、女の子1人じゃ怖いかな? 俺なんか家狭くってさぁ、もうちっと大きな家が欲しいよ」
でっかいおにぎりを頬張りながら智則は笑う。不満に見せかけた幸せ自慢。そんなもの、1ミリたりとも興味がない。ラップで包まれた三角形のおにぎり。さっさ胃の中に入れてしまって。お茶で流し込んで、私の前から早く消してよ。
「泳ご」
「ん! おけ、待って」
もごもごと口元を押さえる智則を無視してデッキに出る。沖縄の海は透き通るように青く、美しく、涙が出そうになった。
どぽん、と重たい音を立てながら、私の体が海に溶け込む。ひんやりした水が焼けた肌を冷やしていく。智則は、私の好きなように泳がせてくれる。後ろから付いて回り、私が溺れないようにただ見守っている。体に触れることはない。
私の視界に智則はいない。もう声も聞こえない。こぽこぽと水の音が鼓膜に届き、口から漏れ出た空気はぷくんっと泡になって消えていく。
あぁ、こんなに綺麗なのに。
ねぇ、もしかしたら、今海の中で人間は2人だけかもしれないよ。誰も告げ口する人はいないよ。
私のこと見えている? この日のために新調した水着はどうだった? ねぇ智則。私に時間はもうないよ。もうすぐ29歳になるんだよ。1人ぼっちで、東京で生きていく勇気は私にはない。この島であなたの幸せを見る強さもない。あなたにおにぎりを握る優しい人から、あなたを奪える自信も、ないの。
今日の夜の便で、私は東京に戻る。来年はきっともう来ない。この島の海に入ることはもうない。フィンを動かすたびに体がぐんと進む感覚も、耳元でこぽこぽと聞こえる水の音がたまらなく好きだということも、海の中で息が苦しくなる不安も、水面を見上げた時のきらめく光の美しさも、きっとすべて忘れていく。なにも残らない。
こぽん。
小さな音を立て、私の唇から空気が漏れ出る。ゆらゆらと頼りなく揺れながら、光を浴びてそれは輝く。切ないくらい綺麗でもろい。私の唇から生まれる小さな宝石。せめてこれだけは、海の中に置いていくね。
この海に私のいた証はなにもないけど、私から生まれたその宝石が、水に溶けて世界を旅してくれたらいい。どこにも行けなかった私の代わりに。
あの人から離れた、遠い遠い海まで。
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