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12|今度は嘘じゃないっす【最終号】

旧号

前説

親哀なる読者諸豚、改めて朗報だ。
簡潔に言えばこれにて本当の本当に完結である。
それでは最終回かつ鬱回のはじまりはじまり。

本編

濱「そういえば最近同僚が引っ越したんですよ」
僕「ほおほお」
濱「前に住んでた家は借家だったらしいんですけど、今はどうなってるんだろうと思って調べてみたんです」
僕「ほおほ、お?」
濱「そしたらですね、今もまだ借り手は見つかっていないとのことで。良かったら明日にでも早速見に行きま」
僕「逝きます」
濱「では生きましょう」

そんなわけで急きょ最期の内見が決まった。その物件はこれ以上望めないほど完璧なものだった。日当たりよし、間取りよし、海まで歩いて5分。おまけにウォシュレットまで付いていた。

神はまだ僕を見捨てていなかった。胸の前で十字を切り天を仰ぎ見ながら深く感謝した。それでは当時の日記を以下に引用させていただこう。

一目見て気に入った。もうここだと思った。でも即決できなかった。

思い描いていたことが現実になるのが怖かった。夢は叶わないからこそ素晴らしい。そんな風に思い込んで現状にしがみつこうとする自分がいた。

ひとまず猶予をいただくことにした。とはいえその間に本当に決断できるんだろうか。この期に及んでビビるなんて本当に僕らしい。

2023年2月14日の日記より

え?

濱田氏同様、あなたも思わずきっとそんな声を漏らしたに違いない。家が見つかったことはもちろん嬉しかった。そのためにここへやって来たのだから。それなのに僕の心の中は「やべどうしよう」でいっぱいだった。

呆れ笑いを浮かべた師が現れる前に白状する。僕は移住がしたかったのではなく、ただ目の前の現実から逃げ出したかっただけだった。

都会のあのきっちりとした感じがもう僕には合わなくなっていた。日増しに縮んで埋もれて溺れてゆくように感じた。その中で自分の居場所を見つけられる自信はもはや無かった。かといってずっと家にこもって、自分自身と向き合い続けるのもうんざりだった。アイ・アム・ザットなんてクソくらえだった。要するにアイ・アム・シットだった。

でも誰にも吐露できなかった。医者にさえも。こんな自分なんかのために時間を割いてもらうのは申し訳ない。いたって真面目にそんな卑屈なことを考えていた。

無論、相手を思いやってのことではない。そうやって耐え忍ぶ自分を眺めてただ自己憐憫に耽りたかっただけ。褒めて欲しい・認められたいという本当の欲求を内に隠したままに。

だからこそ吐露するわけにはいかなかった。それをしたって本当に欲しいものは手に入らないし、同情や共感をどれだけ集めたって金のカンヅメはもらえない。そのことがよく分かっていたから。低すぎる自尊心と高すぎる理想像。そんな人間の末路が幸福であるはずがない。

小難しい本ばかり読んで他人とあまり交流しないとこういうことになる。完全に自業自得。だから自分で何とかしようと思った。その結果、ますます人嫌いになった。

とはいえ我が道を行くほどの勇気もなく、相変わらず他人からの評価を欲していた。そんなわけで、都会が怖くなったので逃げますだなんて言えるわけもなく。だから僕は、

師「移住を隠れ蓑にしたんでしょ?こうすれば実際にはただ逃げ出しただけでも周りからは『すごい』と思ってもらえるもんね。君が思いつきそうなことだ。それで結局どうなった?」

今度は「移住」という目の前の現実から逃げ出したくなった。

僕は一体どうしたいのだろう。物件の外観をぼんやり眺めながらふとそう自問した。でももう何にも考えたくなかったし考えられなかった。なんか色々と疲れた。とにかく今は実家のベッドでゆっくりと眠りたい。

何より僕を憂鬱にさせたのは、こんなどうしようもないヘタレで哀れな自分とこれから先もずっと付き合っていかなきゃいけないというその事実だった。

この内見の2日後、僕はそっと熊野の地を後にした。

さらにその2日後、僕は小田原にいた。最期の悪あがきをするために。だがあの物件以上にピンと来るものはついに見つけられなかった。この日は結局帰らずにGood Trip Hostel & Barというゲストハウスに泊まった。

ドミトリーでは旧東海道を歩いている方と同室になり、興味深い話をたくさん聞くことができた。オーナーにはコーヒーを淹れてもらった。とても気持ちの良い夜だった。

その5日後、僕は高円寺のYonchome Cafeにいた。向かいには阿部くんが座っていた。熊野で過ごした日々のこと、移住するか悩んでいることなどを話した。肝心要の「都会が怖くなって・・」の部分は全編カットした。

彼は「そこまで気に入った物件を見つけておきながら決断もせずのこのこ帰ってくるなんて、君という人間にはまったく呆れたものだ。腑抜け冥利に尽きるとはまさにこのことだね」などと罵ってくるようなこともなく、ただ黙って聞いてくれた。

僕は話しながら段々と「熊野に住みたい」という純然たる欲求が芽生え始めていることに気付いた。ちなみにこの日はTop Edge Hostelというゲストハウスに泊まった。ゲストハウスの入り口が小洒落たカウンターバーの奥にあるというなかなかのハード仕様だった。

翌日の日記にはこう記されていた。

ようやく決心がついた。自分で勝手に大袈裟にしてしまっていただけだと後になっては思う。見事なまでの一人相撲。それぐらい自信がなかった。

不安は尽きないけどそれさえも楽しんでみようと思った。あと一年しか生きられないとしたら何がしたい?実家に逃げ戻ってきたばかりの頃、毎日そんなことばかり考えていたっけな。死ぬのに比べたらどんなことだって恐るるに足りない。

どんといこう。しくじったらどんまいけるということで。

2023年2月24日の日記より

それから僕は意を決して濱田氏に連絡を入れた。待ってましたと言わんばかりに、彼は歓喜いっぱいの声でこう僕に告げた。
「さーせん。もう申し込み入っちゃいました」
お試し移住施設予約時と同様、僕はあたかもマックフルーリーに練りこまれたオレオクッキーのように、再びダークサイドの中へと沈んでいった。
「今度は嘘っす」
少しの間を置いてから彼はそう付け加えた。
※もちろん上記は創作である

1カ月後、僕は三たび熊野の地に降り立った。
なるべく「何もしない」をするぞと固く心に誓いながら。

後記

この前約一年ぶりに実家に帰った。両親は相変わらずだった。でも両親から見た僕はどうもそうではなかったらしい。母からは「よく笑うようになった。憑き物が取れたようだ」と言われた。

確かに当時は世を忌み嫌うあまり、笑うことなど全くしなかった。誰と会っても話しても、何を見ても聞いても出てくる言葉は「くだらない」ばかり。自分でも本当に情けなくなる。ああなったのは誰のせいでもなく自分のせい。それなのに八つ当たりして両親に対しても辛く当たったものだった。

いじりといびりは紙一重。そのさじ加減を見誤れば一生モノの傷を負わせることだってある。それでも両親は僕に対して常に優しかった。その優しさが痛かった。

当時の僕はきっと、叱ってほしかったのだと思う。つまるところ、どんな形であれ関心を示してほしかった。だからこそ、毎日のように母から叱られる親父が実は羨ましかった。

家族という枠の中に納まってはいたが、僕はどこかお客様扱いといった感じでどうにも浮いていた。腫れ物に触るような、といった方が適切かもしれない。両親からすれば、いつ爆発するとも知れない時限爆弾を抱えていたようなものだっただろう。

僕も辛かったが両親だって辛かった。殻にこもり続けるあまり、そんな当たり前のことにさえ気付けなかった。言葉と態度には気を付けないといけない。特に身近な人に対しては。それは他人にも自然とにじみ出てしまうものだから。

おっと、これはいかんざき。最終号に思わず気分がアガってしまい、息をするようにさも自然と能書きを並べ立ててしまった。

「普段ふざけてばかりいる人がぽろっと普通のことを言うと、それだけでもう名言だよね」
遠い昔にある人がそんなことを言った。確かにと僕は思った。何より彼自身がそのことを証明していた。

熊野に住み始めてから1年3カ月。
僕はあの頃と比べて少しはまともになれたのだろうか?両親は確かにああ言ってくれたけど、自分ではいまいち実感がない。人付き合いについても何ら変わっていないように思える。まだまだリハビリは続いてゆくのだろう。

最後に。
これまで辛抱強くお付き合いいただいたあなたに心より顔射申し上げます。

あなたもそのうちきっと熊野の地を訪れることになるでしょう。なぜなら熊野とはそういうところだからです。

その際にはぜひご一報ください。鬼ヶ城でソフトクリームでも食べましょう。もちろん僕のおごりで。

それではサヨオナラ。
ぷぅ。

●読後のデザートBGM


※ホ別。