来世祈願
末枯の木々に埋もれし亀の石
(うらがれの きぎにうもれし かめのいし)
季語は末枯、秋。実際にはまだ緑が濃いのだが、10月に詠む句なのでご容赦を請う。
「鹿政談」は奈良を舞台にした唯一の落語ではないだろうか。上方落語の登場人物には大和出身の人がしばしば登場するが、奈良そのものが舞台になっているのはこの噺しか知らない。噺家次第ではあるのだが、この噺のマクラに石子詰三作という話が使われることがある。
むかしむかし、三作という名の小坊主が手習をしていた。昔は紙が貴重だったので、一枚の紙が真っ黒になるまで何枚も練習をして、清書用に一枚別に置いていた。場所が部屋の窓際であったのだろう。外を通りかかった春日神鹿が窓から首を突っ込んでその紙を食べてしまった。三作はかっとなって、文鎮を鹿に投げつけた。当たりどころが悪かったのか、鹿は死んでしまう。当時、奈良では鹿を殺せば石子詰の刑という死罪になった。三作は生きたまま鹿の死骸に縄でぐるぐる巻きにされ、地面に掘られた穴に落とされて埋められたという。
後にその跡に親族が石塔を建て供養した。塔の土台の石は亀の姿をしている。これは三作の母親が幼くして亡くなった我が子を想い、せめて来世では長生きするようにとの願いを込めて亀の姿を彫った石を据えたものとされている。
これは私が聞いた落語のマクラをもとにまとめたものだ。この石塔が興福寺菩提院に今もある。奈良を訪れる度に一度見たいと思って菩提院へ足を運ぶのだが、いつも門扉が閉まっている。今回も出かけてみたが、やはり門扉は閉じている。すると、たまたまそこに用があるらしい若い僧侶が背後からやって来て、「お参りですか?」と尋ねるので「はい」というと「どうぞ開けて中へお入りください。鹿避けで閉めてるだけですから」と言いながら門を開けて中へ入っていった。門扉が閉じていれば、結界が結んであると思うのが一般常識だが、8年も連続して奈良を訪れているとこういう幸運にも巡り会う。
石子詰三作の墓は御堂の南東の角にあった。塔の前には小さな供養台があり線香立ての鉢が置かれていた。「伝説」とは言いながら、そういう話があるのなら、その前で手を合わせないわけにはいかない。
よく前世、現世、後世あるいは来世などと言う。今ある自分の世界しか知らないので、それ以外があるのかどうか知らない。あるのかどうかもわからない世界を頼りに生きているのがどうなのか、というのは人それぞれだろう。しかし、今の延長線上に物事が展開することを前提に今が在るのも現実だ。明日がある、明日の予定をたてる、明日の約束をする。明日は必ずやってくることを暗黙のうちに信じているからこそ今の秩序が成り立っている。大地震や水害などに際し、被災した人たちが助け合ったり、外からボランティアと呼ばれる人たちが応援に駆けつけたりする話はよく耳にするが、火事場泥棒のようなことは皆無ではないのだろうがあまり聞かない。それは、多くの人々が暗黙のうちに明日を信じているからだろう。
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