続続続続 『宗教の起源』
一度だけ自ら合唱団に参加したことがある。30年ほど前のことだ。都の広報に年末の第九演奏会の合唱団参加者募集の広告が掲載されていた。何を血迷ったのか、それに応募したのである。確か、夏の暑い日のことだった。今から思えば、そこから更に遡ること数年、ドイツ統一で彼の地での第九の演奏会が頻繁に報じられたことに影響されたのかもしれない。地政学上の変化を人々が合唱で祝福するということに素朴に感動したのは確かだ。そのとき発売されたバーンスタイン指揮の第九のCDが手元にある。
さすがに素人の寄せ集めではサマにならないので、その演奏会は都響と都民合唱団に公募による一般参加者を加えるというものだった。参加することが決まって、9月から本番12月の直前まで週に一度か二度、仕事帰りに一般参加の人だけで東京文化会館の地下にあるリハーサル室で練習をした。もちろん指導役のホンマもんの合唱団員の人が何人かいた。私は音楽の素養などまるで無いので、苦行というか禅の修行というか、正直なところ辛かった。それでも練習には毎回参加し、12月に入ると都民合唱団も加わり、本番直前にはソロの人たちも加わり、熱く練習した。指導役の人が、合唱というものは本来はこれほど大人数でやるものではない、と語っていた。即席とはいえ、それほどの大合唱団だった。
そして迎えた年末の本番。会場は東京文化会館の小ホール。一般参加合唱団員に一人8枚の切符が配られた甲斐もあって、客席は満員だ。小ホールといっても、そこそこの規模だ。ま、でも、さすがにフツーに切符を買って聴きに来た茶人は少なかったのではないか。そんなわけで会場は身贔屓の熱気に包まれていた。ステージにはこれでもかというほどの照明が当たり更に熱かった、いや、暑かった。
演奏が始まる。オケは本職なので、危なげない仕事を披露する。問題は我々だ。第九の第三楽章はスローである。音楽に特段の興味がなければ、当たり前に睡魔に襲われる人もあるだろう。それは我々即席合唱団員も同じだった。出演することに伴う緊張感が天然自然の生理現象である睡魔を打ち消す方向に作用する一方で照明の熱気が睡魔を促す。その釣り合い具合は各人各様なのだが、演奏が進むにつれて頭が不自然に揺れている団員が現れ始める。私は身長175cmで合唱団の最後尾の列に並んでいたので、ステージの上の様子がよく見えた。後で聞いたところによると、「魔の第三楽章」なんて言う人もあるらしい。誰にとっての「魔」なのか。
たまに揺れではおさまらずに倒れてしまう人がでることもあるらしいが、その会では無事に第四楽章にたどり着いた。いよいよ合唱だ。ソロから始まる。
オーーフロインデー、ニヒト、ディイーゼテネー
(O Freunde, nicht diese Töne!)
このソロの人は直前のリハーサルの時まで首にネギを巻いていた。ネギをガーゼのようなものでくるくると包んで、それを首に巻いていた。ネギは喉に良いんだ、と妙に感心した。その彼がソロを歌う。一気に緊張が高まる。全身が耳になる。自分のパートを間違えてはいけない。私はテノールの塊の中にいた。
フロイデ!
(Freude!)
で、記憶が無い。倒れたわけではない。歌うのに必死で、歌の記憶が無い。終わってみれば汗びっしょりで、気持ちが高揚していた。客席は割れんばかりの拍手の渦で、半分近くの人がスタンディングオベーションだ。感動だ。団員一人8枚の切符を配った甲斐があった。でも、そこまで良かったかなぁとの冷静な思いは、やはりある。コロナ禍前は、暮れになるとあちこちで第九の演奏会が開かれた。ステージの上に立つ側にいるのも、それを聴く側も、あの高揚感と陶酔を味わうことに病みつきになってのめり込む心情はわからないではないが、自分はこれ一回で十分だと思った。自分がこういうことに参加すると他人様に迷惑がかかるのを自覚しているということもあるが、合唱というものの魔力のようなものを垣間見た気がして怖気付いたということもある。
複数の人間が一緒に同じ楽曲を歌うというのは、やはり脳を刺激して快感をもたらすのだろう。学校には校歌、会社には社歌、軍隊には軍歌、国には国歌、宗教には賛美歌や祈祷歌唱がある。宗教で言えば、声明や読経も合唱と言えなくもない。大勢の人と一緒になって同じ行為に没頭する、そこに生まれる調和に酔う、そこに何か人が個人でいるのとは違う、集団の一員という別人格になることの魔力のような力が働く気がするのである。そういうことも「宗教」と関係があると言われると、まぁそうだろうなと思う。
アーレ メンシェン ベルデン ブリューウダ ボー ダイン ザンフテル フリューゲル バイルト
(Alle Menschen werden Brüder, Wo dein sanfter Flügel weilt.)
君の柔らかな翼が止まるところで全ての人々が兄弟になる
兄弟姉妹の感覚というのは私にはわからない。私にはそういう相手がないからだ。傍目には、兄弟姉妹というのは逃れられない関係に見えて、ちょっとキツいかなと思ってしまう。現実的には今更どうしようもないということもある。しかし、世間一般としては親兄弟というのは自分が世界と繋がっていることの証となる確固たる関係性のように捉えられている気がする。人はどれほど個人であって、どれほど人類なのか。そのあたりを都合良く接続する方便として宗教とか家族観のようなものがあるのだろう。