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note:『唐草|てんやわんやスペイン暮らし』

一度だけマドリードに行ったことがある。1990年4月だった。留学先のビジネススクールのグループワークのプロジェクトで欧州の歯ブラシ市場を調査するという課題が与えられていた。6人のチームで、2人一組ずつに分かれて欧州主要都市を二泊三日ずつ周ってそれぞれの場所での歯ブラシの売られ方を調べた。私が担当したのは、マドリードのほかに、パリ、ジュネーブ、ウィーンだった。昔のことなので、殆ど記憶にない。外資での勤務が長くなったが、身近にスペイン人あるいはスペイン語圏の人との縁もない。要するにスペインは知らない土地だ。

そのスペインで暮らす唐草さんのnoteが面白い。今日現在で上がっている記事を全て拝読した。文章というのはやはり人柄が出るのだろう。唐草さんのnoteに登場する人たちは気のいい人ばかりだ。どれほど気に入った場所で、どれほど気の合う相手と一緒に暮らしていても、いいことばかりはないだろうし、嫌なことだってたくさんあるはずだ。かといって、明るい話題ばかり取り繕うというのも嘘くさいし、下手をすれば嫌味にさえなる。要は、自分と対象との適切な距離と、その自分自身を観察するだけの心の余裕がないといけない。その辺りの塩梅がとてもいいのである。

唐草さんは副業として現地で日本語を教えているらしい。生徒さんたちは中高生のようだ。おそらく、彼の地で日本あるいは日本語に興味を持つ人たちというのは少数派だろう。日本は極東だ。今は通信も物流も世界中を網羅していて地理的なことなど重要ではないのかもしれない。しかし、情報やモノのやり取りが何不自由なくできることと、相手をどれだけ身近に感じることができるかということは全く別の話だ。それでも日本に興味を持つ人たち。たぶん、仲間内では「ちょっと変わったひと」という感じではないだろうか。だから余計に個性的な面々なのだろうが、この人たちと唐草さんのやり取りがとても楽しい。特に印象に残ったのはペドロさんの話だ。

コップに半分水が入っているのを見て「まだ半分もある」と感じるか「もう半分しかない」と感じるか、という話と似ている。しかし、コップの水の話はどこか他人事で、そのことを例に挙げて「ほら、まだ半分ある、と思えばいいんだよ」と言われても、絵空事にしか聞こえない。ところが、ペドロさんという実在する人物が、

「70点から合格ってことは、100点じゃなくて70点とれればいいわけだよね。だから、今50点とれてるってのは、もうほとんど合格ってことじゃん」

と語ると、なんとなく目から鱗が落ちた気になるではないか。

もちろん、日本への関心が周囲に理解されない人の、ちょっと悲しい話題もある。

この記事のコメント欄には主人公のRくんに対する先生の態度を批判するものがいくつか寄せられているが、この先生の態度の方が世間の標準だと思う。寿司と刺身が違うものであろうが、同じものであろうが、世間としてはどうでもいいことだ。しかし、Rくん個人にとっては大問題だ。Rくんにとって大問題であるということを理解できる人がRくんの身近にいるかどうか、それがRくんの今後にとってさらに大問題だ。幸い、Rくんは後者の大問題に関しては心配がなさそうだ。事は寿司がどうこうというどうでもいい問題ではない。心身の成長期にある人が己の世界観を理不尽に否定されるような関係性の中に置かれているか、それとも一人一人の世界観に真っ当な敬意が払われる関係性の中にいるのか、子育てや教育に関わる大問題だ。それはスペインであるとか日本であるとかいうような限定された世界のことではなく、人間社会に共通したことだと思う。

いつの頃からか今となっては記憶がないのだが、言葉というものに興味がある。はっきりとした興味を覚えるようになったのは、意識的に落語を聴くようになってからだと思うので、ここ15年ほどのことだろう。落語、なかでも古典と呼ばれる噺は、全体の物語もサゲも、そこに付く典型的なマクラも、全て承知の上で聴くわけだが、それが噺家によって、同じ噺家でも日によって、違うものに聴こえるのはなぜだろう、というのが興味の発端だった。

噺家の中で俳句や短歌を詠む人がいるとか、噺やマクラの中にそういうものが出てくることから、俳句や短歌のことにも興味が湧いた。何年か前に「万葉集講座」という教養講座を受講したこともあって、言葉への興味が深くなる一方だ。

日本語はなぜ漢字だけを輸入して、文法は変えなかったのだろうか? 島国であること以外に日本語が隣接する地域の言語と全く異質であるのはなぜか? 同じテキストが語調や間を変えることで全く違った意味になるのはなぜか?

おそらく、話芸や短詩型が成立するのは話し手・詠み手と聞き手・読み手との間で共有している価値観や経験が厚いからであろう。それは地理的に移動が限定されてきたことと関係あるだろうし、移動が限定されることで対峙する他者の範囲も限定されていたこととも関係あるだろう。つまり、日本語はよく見知った関係の中で育まれてきたと言えるのではないだろうか。

それに対して広範な他者の存在を前提にした言語は他者との価値観や経験の共有というような長い時間を要することをそもそも想定してないのではないか。だから明確な文法と発音法があって、伝播が比較的容易で言語としての勢力を拡大しやすいのではないか。現在の国際機関や取引で標準言語として使われる英語、仏語、スペイン語などはそうした未知の他者が広範に存在することを前提とした言語の典型のような気がする。

他者の存在についての前提が違うということは、自意識の感覚も異なるということだろう。「私」はどの程度「私」なのか。「私」と「あなた」との境界の濃淡はどのように変化するのか。世間では言語の実務での運用能力に関心が集まりがちだが、そもそも言語に正解というものがあるのか、つまり、検定試験のようなものが成り立ち得るのか? よく「話さなければわからない」などと言うのだが、話せばわかるのか? 敢えて沈黙することで通じることもあるのではないか? 

こうしたところからも、海外で暮らす日本の人たちの記事には興味が尽きない。何語を話すのか、何語が母語なのか、というようなことは先日読んだ陳先生の国籍のこととも関係してくる。「私」は何者なのか、あなたは何者なのか?

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