月例落選 俳句編 2023年3月号
投函したのは2022年11月29日。既に角川『俳句』の定期購読を終了しているので、3月号は陶芸教室近くの本屋の棚で落選を確認してきた。
題詠は「灯」。
冬籠灯火管制息潜め
(ふゆごもり とうかかんせい いきひそめ)
灯火が微かに揺れる大晦日
(ともしびが かすかにゆれる おおみそか)
灯火管制など経験したことはないのだが、世界のどこかには必ずこういう場所があるものだ。平和がデフォルトなのではなく、こういう状況の方が一般的であるのは歴史が語る通りだろう。今、自分が置かれている状況は、たぶん、人類史の中では奇跡的に安穏な方だ。
「掛け取り」という落語がある。今は小売の商取引は同時履行の原則というものに基づいて、商品と代金の受け渡しが同時に行われることが基本となっている。しかし、かつては商品先渡で代金は月末や年末にまとめて支払った。買い手が自ら商店に出向く場合もあったかもしれないが、多くの場合は店の者が掛帖を持って買い手を訪問して歩いた。それを「掛け取り」と呼ぶのだが、払う方からすれば掛け取りの相手は御免被りたいということもある。その攻防を描いたのが落語の「掛け取り」だ。
噺の中で、長屋暮らしの主人公夫妻は亭主が留守ということにして掛け取りにお引き取り願うという手を使う。しかし、長屋は狭い。隠れるところがあまりない。そこで亭主がうずくまり、女房がそれに風呂敷を掛けて布団のように見せかけようとするのである。生身の人間なので息もすれば、多少の動きもある。江戸の昔なら電灯はないので部屋の照明は行灯か蝋燭だろう。息を潜めて隠れているつもりなのだが、それでも漏れる呼吸で部屋の隅の灯が小さく揺れる、という風景だ。
今は大晦日と言ってもフツーの日という人が圧倒的に多い気がするのだが、私などは貧乏性なので、大晦日が無事に過ぎてくれれば一安心という気持ちが未だに多少はある。心の中で灯が常に微妙に揺れている。
雑詠は以下の三句。
黄昏て群れを離れる冬至の日
(たそがれて むれをはなれる とうじのひ)
国宝だそれがどうした文化の日
(こくほうだ それがどうした ぶんかのひ)
暴走の最後の一人冬至祭
(ぼうそうの さいごのひとり とうじさい)
身の回りで還暦過ぎてそれまでと変わらぬ勤めをしているのがあまりいないので、自分も引退して、それまでの賃労働者の群れを離れるものだと思っていた。誕生月が年の終わりの方なので、そういう切れ目と冬至が重なると思って詠んだ。しかし、つい先日、今年の年俸の提示を受け、今現在、勤めが続いている。職場では断トツ最年長の平社員だ。
この句を詠んだ頃、上野の国立博物館で「国宝展」を開催していた。開館150周年の記念企画で東博所蔵の国宝89点を全て展示するというものだった。展示品保護の関係で一部は会期途中の展示替えがあり、常時89点全てを展示することはできないようだったが、企画担当学芸員の専門が刀剣ということもあって、刀剣19点は会期を通じて全点展示された。一見して刀剣の展示は力が入っており、見る者に何事かを迫るような雰囲気が漂っていた。しかし、「国宝」の何たるかがそれでわかるかといえば、私如き凡人には「それがどうした」と言いたくなるのである。「国宝」とは、ということをここで書き始めると長くなるので書かないが、釈然としないところがある。
昔、「暴走族」と呼ばれる人々がいた。今はそもそもバイクの国内販売台数が「暴走族」華やかなりし頃の10分の1ほどにまで激減しており、「族」と呼ぶことのできる集団を形成することが困難になっている。しかし、たまに近所で爆音が轟くのである。一台なので「族」ではないが、絶滅危惧種のようなものになってしまうと、「お、まだいるんだ」と妙に懐かしいというか、場末の遊園地のメリーゴーランドを眺めるような心持ちになる。
ところで、先日sachiさんから下の記事にスキを頂戴した。
こういうものを読んでいただけるということは、俳句を詠む人なのだろうとsachiさんのnoteを拝見した。「月石幸」という俳号で本格的に俳句を詠んでおられるそうだ。角川の『俳句』3月号の「令和俳壇」では推薦一句、秀逸一句、佳作一句と都合三句も掲載されている。
推薦 選者:五十嵐秀彦
立冬に打つ待針の白さかな
秀逸 選者:小林貴子
ぷきぷきと菱の実手折る早さかな
佳作 選者:井上康明
かすてらのふつくら焼けて草の花
「令和俳壇」は三句まで投句できるようになっているので、投句した三句が全て選ばれているのである。推薦句には選者の選評が付く。
選評にうならされてしまった。大変勉強になった。