月例落選 俳句編(とりあえず最終回)2023年5月号
投函したのは1月31日。既に角川『俳句』の定期購読を終了しているので、5月号は職場近くの丸善丸の内店の棚で落選を確認してきた。俳句の「月例」としては今回が最終回。
題詠は「刃」。
突き立てし刃の先の梅の花
桜散る刃を伝う温かさ
刃というと物騒なことしか思い浮かばなかった。我ながら貧困な発想にがっかりする。
昔、仕事で福岡県にあるロームの工場にお邪魔した。そのとき、確か久留米の「梅の花」という豆腐料理の店で晩御飯をご馳走になった。その「梅の花」が東京にも出店するというので、青山ベルコモンズにあったその店に出かけた。久留米とは違ってカジュアルな感じだったが、それでも悪くはなかった。それが、いつの間にか少し高級なファミレスのような風情になって、けっこうあちこちで見かけるようになった。何年か前に大阪に遊びに行った折に、堺の「さかい利晶の社」にある店に立ち寄った。今のところはそれが最後だ。句とは全く関係がないが、ふと思い出したので記しておく。
雑詠は以下の三句。
初詣年に一度の稼ぎ時
もくもくと富士立ち上がる春の朝
じゃあまたね春の終わりを反芻し
最初の句は角川『短歌』4月号への投稿で詠んだ
の上句の再利用。こういうのはいかんね。2番目の句も角川『俳句』4月号への投稿で詠んだ
の「冬」を「春」にしただけ。こういうのもいかんね。反省。3番目の句はだいぶ前に詠んだ
と同じネタを使っている。もう還暦を過ぎたというのに、今でも18歳の頃に経験した風景で歌や句を詠んでいるのである。サステナブルな精神生活だ。
時々刻々齢を重ねているというのに、印象としては、昨日の延長線上の今を繰り返しているかのようだ。だが、確かに今までとは違う時を新たに重ねている。その証拠に、玉のような、珠のような、赤ん坊であった時期があったはずなのに、こんなジジイになってしまって……マッタク。無数の様々な経験を積んできたはずなのに、知恵や賢明さが幼年時代に比べて顕著に向上したとは思えない。意識の上では、18歳の頃の風景はおろか、もっと幼い頃の数え上げることができる程度の事柄を繰り返し頭の中で舐りながら、わずかばかりの時空間を世界の全てであるかのように錯覚しながら、たいしたこともできずに生きている。我ながらバカだねぇ、とは思いながらもどうすることもできないでいる。こんなふうに書くと暗澹とした気分になるかと思いきや、逆に清々しいものを感じている。そういうしょうもなさが愛おしい。