シン・エヴァ感想(ネタばれ)
新劇場版はエヴァファンへの別れの手紙であって、それを知らない人への挨拶ではない、そう思う。
クレジットが終わったとき、周りから聞こえた中で一番多かった感想は「わからん」だった。
自分は、こうして自ら生み出したエヴァという化け物に決着をつけた庵野監督に拍手しようとして、「いや、野暮だな」と抑えた限界キモ・オタクなのだが、周りの「わからん」という言葉もよく分かる。
なにせ、この映画、観客以外みんな「分かってる」のだ。
葛城司令はどうすればいいか分かってるし、綾波タイプもどうなるのか分かってるし、アスカも、というか、シンジくんまで分かっている。もう、出る人みーんな「分かってる」前提で話すので、こちらは「察する」しかない。
Qは、突然起きて何もわからないというシンジの気持ちを追体験させる、「分からない」ことを楽しむ映画だった。
だけど、シン・エヴァは「分かってる」のだ。
それは、なぜそうなのか?
庵野監督がやっと「わかった」からである。
人生とはなにか、人との関わりとは何なのか。Qに無くてシン・エヴァにあったものはズバリ、「折り合いをつけ、前に進んでいる大人たち」だ。そして、折り合いをつけられず、いつまでも過去にすがり続けていたゲンドウ(これは前から何となく示唆されていたことだが)。
彼の贖罪がなされることによって、この物語は終わった。大人になれなかった大人が、その責任をとって終わったのである。
折り合いをつけて、諦めて、TV版の最終話のように薄くなっていく世界の色。だが、マリという存在が現れた瞬間、それが色づく。一人ぼっちだと思っていたら、手を伸ばしてくれる人がいて、そこにはエヴァのない日常がある。
そう、私達は、「エヴァのない日常」を生きている。使徒はない。綾波もいない。これからは、そういう世界になる。でも、それで世界に色が無くなるわけじゃない。日常にも色があって、そこに未来がある。最後のシーンには、そういうメッセージを感じた。
「シン・エヴァ」は、庵野監督自身の、そしてファンに向けての別れの手紙だったのだ。
さようなら、エヴァンゲリオン。ありがとう。
そして、おめでとう。
この、マリというキャラには個人的に複雑な思いがあるのだが、それはまた今度。
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