シュルレアリスムと自由/#哲学未満4
我々は何をどうやって見ているのか?我々は見たいものを見ているのだろうか?
『シュルレアリスム宣言』が出版されて100年を記念して、各地でシュルレアリスムを題した展示会や映画祭が行われている。東京都美術館のデ・キリコ展や渋谷ユーロスペースのシュルレアリスム100年映画祭が代表的なものだろう。
シュルレアリスムは超現実主義を標榜するようだ。これは何か空想な表現を志向しているのではない。超スピードという言葉が表しているように、超現実はまさに現実、現実をより現実化させたものであると言える。シュルレアリスムは現実に忠実な表現を求める。
我々は現実を見ている。このテーゼはどこまで可能だろうか?
こういった認識の変遷を扱うのは、経済学の歴史を振り返ってみることは面白い。現代経済学(新古典派経済学)は、売り手と買い手の2主体による財の交換という視点で経済を捉え、分析する。一方で、マルクスは資本家、地主、労働者の3階級に分けて社会を捉えることで、その相互関係で経済を分析した。
ここで議論したい点は、どちらがよりよい説明なのかということではない。どちらが現実を描画しているのかという点である。現実を表現して分析しているという点では、どちらの見解もそれなりの説得力を保持している。では、どちらが現実だろうか。
現実を捉え、考えるとき、我々は決して自由に考えることができない。我々は例外なく外部からの制約を課されている。それでもなお、現実を現実のまま見ることができないのか?自由に思考し、観察することはできないのか?と問いかけてくる。
シュルレアリスムは成功したのだろうか。相関主義批判以後の哲学は、現実を現実のまま捉えることを引き受けていただろう。それは不完全燃焼したように受け取られているが、実際はどうだろう。その哲学がシュルレアリスムを超えたことは、人間を介さない認識ができないか模索したことであろう。
シュルレアリスムの運動は100年を通じて、人間が現実をそのまま認識するかという問いから、人間を媒介としない認識を捉えなれないかという問いへ変貌し、再度我々に問いかけてくる。
『シュルレアリスムとは何か 』巖谷 國士 ちくま学芸文庫