人生に価値が無いとしたら、我々は生を諦めるか。
以下の文章は学術的な知見に基づかないため、誤解を招く可能性があります。自己判断の上で、お読みください。
私は経済学史を勉強している。古典派経済学特に、アダムスミスやマルクスは価値を2つの意味に使い分ける。一つ目は、使用価値である。これは「特定物の効用を表わす」(1)ものである。例えば、ペンの使用価値は書けるという価値である。2つ目は交換価値である。これは、「他の商品と一定の比率で互いに交換しうることをいう」(2)。もう一人登場人物を上げたい。バタイユ。バタイユは有用性という概念を提示しており、経済において価値を持つものは有用性をもっていると述べている。使用価値とバタイユの有用性は非常に似ており、何らかの行為に従属したものに価値を感じることが共通している。先述したペンの例を使えば、"書く"という目的に"ペン"が従属している。バタイユの有用性も、"経済"というものに"モノ"が従属している。
人生の価値とは何だろうか?人生に交換価値はあろうだろうか。その側面はあるだろう。自分の時間を他人のために使う。これは労働の観点でも育児や恋愛、友人関係や親族関係に時間を使う。労働力商品化説に乗っ取らなくても、我々は人生の一部を他人のために使用している。交換価値ということにおいて、人生に価値はあるのかもしれない。
人生に使用価値はあるだろうか。使用価値には、目的な先験的に与えられている。人生に使用価値がある場合、何かしらの目的に従属し、目的を達成する手段として人間が価値を持つことを意味する。では、人生は人生を越える何か大きな目的が存在することを認めないといけない。では、その人生に先立つ目的とは何だろうか?仮に目的があったとして、人生に使用価値があるのならば、我々の人生は何かに従属している。そのような目的が存在する場合、我々は何かに縛られることになる。なにかに縛られているような気だするし、縛られたくないようにも思える。ここは、まだ考察が必要だ。
人生や価値の定義は曖昧である。曖昧であるから、答えが与えらえづらい。けれども、言葉の曖昧さが持っている魅力がこの問の面白さだろう。
思案していくにつれ、次の事実に行きつく。その上で、人生に価値が無いのだとしたら、我々は人生を手放すだろうか。人生が無価値の中に存在するとして、それが存在しなくなるわけではない。世の中には、どうやら価値はなさそうだが、存在しているものも多いだろう。少なくとも、なくても何とかなりそうなもの。人生なんて、そんなちっぽけなものかもしれない。
参考文献
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%BF%E7%94%A8%E4%BE%A1%E5%80%A4-78933