洗濯を選択するアートな哲学ウォッシュ
アート思考って?
ちょうっと前に流行ったアート思考。アートって芸術の事ばかり思っていたけど、違うんじゃないかと自覚してきた。言葉では分からなかったけど、感覚で理解し始めた感じかな。
ちなみに
アートとは?
表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。by wikipedia
このままだとちょっとイメージしづらいが、アートはもっと個人の思想・哲学を体現したものかと。さらにはアートってのはどんなモノ、コトも対象になり得るのではないかと言う事。
それは、見えない価値でさえもアートになるのだ。
仕事がら見えない価値(ソフト面)を作る事が多く、成果として定量化できないものが多い。なのでクライアントに説明するのもストーリーだってて未来予想図を伝えて進めている。
けれど、みんな分かっているのだ。このまま数字だけを追った世界にそれぞれ個人が求める豊かな世界が無い事を。
見えない価値とは、人との繋がりであり、共感である。
超情報化社会になり耳障りのいい情報だけが世の中に広がり、危険なのは本当か嘘かも分からないのに、なぜか自分以外がとても良く見えてしまう。隣の芝はとても青々としており、なんて自分の庭は貧弱なんだと。
いや、それは違う。
そもそも他社と比較する事自体に意味なんてない!とは言わないが過度に意識しすぎるのは精神衛生上よくない。見つめるべきは自分自身であり、他者に選択肢を求めるのではなく、自分自身で選びとる様が必要なのだ。
その能力を育むのがアート思考なんだと思う。
何が好きかを知り、その何かを探求し、そこで得た思考・哲学を外界に表現をする。そして、それを繰り返す。つまり、それを繰り返す作業は生きる行為に他ならず、昨日の自分よりも今日の自分が広がっている感覚を推し進める行為でもある。
こんなに情報が多くて選び放題なのに選べない。つまり、それぞれが物事を判断するジャッジするチカラが求められるし、その選択するという自主性、意思が自分の選んだレールを歩む感覚を与えるのだろう。
そんな生意気な事を言ってる自分だが、まだまだアート性は低いのだ。いろんな事に興味関心があるので、余す事なくやっていきたい。世界中全部行きたい!
▼アート感覚は自分を知る/知ろうとする事から始まる
そんなアート思考の話をしたのだが、その前にじゃあ自分はどうなんだという経験談。自分の話をすると、昔にハブられたりした経験があるから「人に嫌われたくない」という気持ちが人一倍強いのだ。
昔はそれが行き過ぎて、相手の言う事を聞きすぎて洗脳?ってか他者のレールを思いっきり歩いてたと思う。それが小学生時代にあって、中学、高校と人並みに自我を広げていき今の思考の土台が生まれたのは大学四年生ぐらいだったな。キッカケは「就職活動」「海外一人旅」「絶望経験」。
まず初めてに「就職活動」は、多くの人がやったことあると思うけど、初めて主体的に自分自身を問う事をしたはず。それまでそんな事をしてこなかった我々は大いにアタフタした事だろう。もちろん自分もそんな1人。
よくあるように自己分析をしながら客観的に自分自身を捉える手段を獲得する事で、現実と理想、自己と社会、個人と他人などの距離を測るモノサシを手に入れる。それにより、自分自身で行動をある程度コントロールできる風な能力を手に入れるのだ。あとは経験でそのモノサシの精度、大きさ、長さが変化していく。ってか、やっと大学生でって遅すぎだろ笑。たまにいたじゃん?妙に大人びた同級生の子、そんな子たちはきっとすでにモノサシを持ちながらあなたと接してのだろう。
二つ目に「海外一人旅」である。これは就職活動を終えてから1人で東南アジアを1ヶ月ぐらい旅した経験だと。それまでは家族旅行とホノルルマラソンでハワイに行ったぐらいの海外経験のみ。そんな時に同級生が大学3年生の冬休みの日にインド?だったかな、休みの日を使って3ヶ月ぐらい旅した話を聞い後に自分も「1人で海外に行ってみたい!」という感情がパッと芽生えたのだ。もちろんその同級生の話が上手かったのもあるが、いきたい!という気持ちに論理なんてものはなく、ただただ行ってみたいという強い感情があった事だけは覚えている。
実際に海外に一人旅にをしに行って言えるのは、本当に行って良かったという事。きっと今の自分があるのはあの時に海外一人旅をするのだ!とジャッジし、実際に行き、帰って来てから成長を強く感じた事。よく言う、海外一人旅は自分探しと揶揄される事はあると思うんだけど、強制的に内なる自分自身と会話しなければいけないので、自然と自分のネガもポジも両方の欲求が問われる。自分を探すというよりは自分と話す時間だね。
三つ目は「絶望経験」。さっき明記したように、若くして達観した子に多かったのは親の離婚や死別をした人が自分の周りには多かった。若くして求めていない強烈な現実が突きつけられ、深く重く悲しい経験を乗り越えてきた子だちだ。きっと自分自身をメタ的に見なければ、ネガティブな感情に押しつぶされてしまう、ある意味処世術として客観的に物事を見る能力、つまり先述したモノサシを手に入れたのだろう。
自分の場合は最近だと、自転車世界一周を諦めて帰国してからの3年間ぐらいは、絶望の底にあと少しでタッチできるぐらいまで自分を攻め続ける日々が続いていた。笑ってても心から笑っていない、今考えるとかなり情緒不安定な自分がいた。あの頃には戻りたくないなー、今でも精神安定行為(筋トレ、サウナなど)を意図的にしないとすぐにダウナーになるので怖いわ。
そんな「絶望経験」を経験をすると、人の痛みに寄り添えるようになるのだ、という持論。最近youtubeのアニメ名言MADにて「人生って優しくなるためにあるんだと思ってます。by 青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない(アニメ)」って言葉にわりと感銘を受けている。つまり、絶望を超えた先に待っているのは優しい人間でありたいという不断のココロであり、本当の意味での「他者への共感」を獲得すると思っている。
まぁ、絶望を経験して乗り越えないと、責任を他者へ向けてしまう傾向になるし、自分もそうだった。「このレールは俺のレール?こんな道は自分の進みたい道じゃないよね?あーツライ、なんで俺だけ?ひどい、世界、タヒにたい(ループ)」。絶望(引きずってはないが、今でもこびりはついてる)を乗り越えた話はまたこの度にしよう。
つまり、自分にとってはこの3つの大きなターニングポイントがあったから、今の自分がいるという確実にある事。獲得したものをまとめるとこれだ。
①「概念やリアルを図るモノサシ」
②「個人の思考、哲学、趣味趣向のメタ認知」
③「他者への共感、甘え、寄り添い」
こんな感じかと。
話がメッチャ長くなってしまったが、自分はこれらを獲得したおかげで自分なりの「アート思考」を手に入れたと自覚する。つまり前よりも少しずつ、だが確実に自分という存在を理解し、認め始めているのかと。
▼最近のくまがい的アート思考は?
Oregestarさんの楽曲と絵師によるアートワークの絵。youtubeなんだけど動画ではなくて止まっている静止画に対して音楽が流れている、それを見続ける。同じ絵をずっと見続ける事(最低でも3分間以上)なんて出来なかったけど、ここ最近になるポイントが確実に増えた。
・その絵が動いているように感じる
・その絵の過去と未来を予想する
・その絵のどこが好きなのか考える
・その絵の人、背景の書き方を学ぼうとする
・その絵の構図への興味
などなど
何が言いたいかというと、アートとはその見る人によって2次元から4次元になるという事。自分みたいアート系ど素人には、「音楽」のチカラのおかげで1枚の絵にアート思考を生み出している気がする。
つまり自分が考えるアートというのは「経験(過去) x 興味関心(現在) x見ている/感じている 対象物・対象事象(未来なイメージ) = アート」なんじゃねーかなと。もっと深ぼれそう、だけど途中で力尽きたねん。これもいつかディグリタイ。
まとめ
切り口次第によってアートなんてそこらへんに転がってるし、なんでもアート(芸術)だし、何より誰しもがアーティストになれるのだ。(って誰か言ってた気がする)別にアーティストになりたいわけじゃないと思うけど、自分の精神(ココロ)に居座るものを外に出す事でスッキリする事はあるんじゃないかと。思考も血液と一緒で濁るけど、人に話をする事で簡単に解決する事もあるかもしれない。思考や哲学を洗うのだ、ゴッシゴシ。
けど、もっと根源的な精神(ココロ)をどうにかするには、それぞれに合った外への表現の仕方があると思う。だから誰しもがアーティストになり得る可能性というのは人によっては救いになるかもしれない。自分の場合は会社での表現が、自分を表現する事に多くつながっている部分がある。他だとイラスト(江口寿史先生風)、音楽活動(作曲家、トラックメーカーさん ご協力の元)、団地活動(会社のプロジェクトの一つ)、あとはnoteを使って思考を言語として外に出す行為、ライティングみたいなものかなと。
これから挑戦したいなと思うのは、料理、キックボクシング、自転車(ビルド、トライアスロンに向けて)、英語もだ…やりたい事が多いのはなによりだ。
きっと自分はずっと何か表現したいのだ。
そこには必ず人との接点があり、そんな人たちに何か少しでもポジティブな影響を与える太陽のような存在でありたいんだと。
道のりは果てしなく遠いが、まずは自分が踊るのだ。
誰かに見せるためではない。
じゃあ、誰に?
自分だよ。
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