批評初心者の感想④(成田くうこう『最後の子ども』評)
第1回透明批評会10月度 成田くうこうさんの『最後の子ども』評を致します。
この作品を呼んで、面白い思ったのは、一人の主人公(以下A氏)の語りで構成されている点です。それなりの朗読者が朗読するとより面白い作品、ラジオドラマになるのではと思いました。(落語家でも面白そうですが、オチとかないのから無理か)
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さて本題ですが、主人公のA氏は、雪山登山に自信があった、がしかし想定外の嵐により遭難死、そして恐らく臨死体験を経て、無事に生還したという流れと見えます。
恐らく、A氏は中級から上級以上の登山経験者でしょう。途中の「呼び声」が気のせいと判断したり、「登山計画書」を出さなかったという記述から、それなりのクラスの山だったのも分かります。
そして、まさかの吹雪と雪崩で、身動きが取れなくなり、そしてやがて「臨死状態」と思われる状況。さて、A氏は動けなくなった状態で「死んだ」といいますが、恐らく本当は、ある場面までは死んでおらず、時間軸も本人が思っているよりも短時間ではと思いました。「急に私を睡魔が襲いました」というところ以降は、展開がそれまでの「具体性」から「抽象性」に変わっているようで、そこは恐らく臨死体験でA氏が見た不思議な世界なでしょう。「コタツを出る」というシーンは、凍死という寒い状況からの反発的なイメージをうまく混ぜているように思いました。
そして、「おまえで最後だよ」という言葉は、タイトルと連動しているのでしょうけれど、「臨死状態からの生き返り」の事を司る、ある「存在」ではと思いました。余談ですが臨死体験者が花畑をあるいていると閻魔が出てきて「お前は早い」と突き返されると息を吹き返したという話を聞いたことがあって、ある意味そんな感じ「御前は最後に生き残れるんだ」という事でしょう。そして急激に具体的な展開に戻って生還したという流れになります。
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さて、もし私がここでこの作品を書くならという事をいつものように考えてみました。
一つ目は「登山報告書」を出していないというのは序盤で書くと思いました。最初にこれを入れておけば、このA氏がある意味登山に余裕を持っていたが、というのがもっと強調できるのではと、「まあ、出すほどの山でもなかったんだが」みたいなことを言いながらの余裕というかそういうのです。
次は、私的に「臨死体験」と思う前、すでにA氏は死んだと判断している下りですが、「死んだ」と書いてしまう事にやや抵抗感がありました。結果的に生還したA氏、しかしその後に「眠くなった」という所で本当の臨死体験的な明らかにそれまでと違う霊魂だけが独り歩きし始めた不思議な体験とは、違い、瀕死の状態でもまだ死んではいなかったということが見えますので、この「眠くなった」前と後でちょっと表現方法を変えてみたいと思ったのです。たとえば、臨死体験以前は、「もう死ぬだろう、でも生きたい気持ちもどこかにある、意識ははっきりしているでも、見知らぬ老人からの声、一体自分は生きているのか活きているのか死んでいるのかわからない状態だった」と振り返るのも分かりやすいかという風に思いました。
あとは、「最後だ」と、生きる方に導いた「存在」が、もう少し強調したかもしれませんでした。いずれにしてもこれは私が勝手に思っていることなので「そんな考え方もあります」程度に見ていただければと思います。
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追記:いつも他の人の作品のレベルが高いと思いつつ、来月は私が批評される月ですが、ひょっとした「批評に値しない」と思われるかもしれませんが、できれば皆さんの批評を受けて、その個所を中心に修正して書き直そうと思っていますので、よろしくおお願いします。
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