第2回台湾旅行・行った場所【国家人権博物館】まとめ
以前、食べた物と廟・寺院についてはまとめたのに、それ以外の場所について書くのをすっかり忘れてました。そうこうしているうちに、台湾で大地震が発生……。花蓮以外ではそれほど被害はなかったようですが、近いうちに行きたいと思っていた太魯閣渓谷(太魯閣国家公園)が甚大な被害を受けてしまったようです。
あの周辺は太魯閣(タロコ)族という台湾の原住民が住んでいて、太魯閣渓谷のツアーやホテルなどもその太魯閣族の貴重な収入源となっていると聞いたことがあります。今は太魯閣渓谷は無期限休業しているため、再開したおりには必ず訪れたいと思います。
というわけで、第2回台湾旅行記事の第三弾の前編、「国家人権博物館」編です。近藤弥生子さんにご紹介いただき、一度行ってみたいと思っていた場所です。
ロケーション
大坪林の駅からバスに乗って荘敬中学のバス停で降りて徒歩5分ほどでつきました。入場料は無料で、9:00〜17:00に入れます(月曜日は定休日)。
下の案内図で言うところの『①服務中心(サポートセンター)』でパスポートを預けて、日本語ナビの機械を借りていきました。
台湾の歴史をざっくり説明
台湾の「暗い」歴史を超ざっくりと説明すると、第二次世界大戦(WW2)当時、今の原住民の人たちが住んでいた台湾は日本が植民地としており、その日本は中国大陸では中国国民党と戦争をしていました。
終戦後、その中国大陸では毛沢東率いる中国共産党が生まれ、蒋介石率いる中国国民党と覇権争いをして(国共内戦)、結果、国民党が戦いに敗れて台湾に逃げてきたため、WW2終戦後はその蒋介石が台湾を支配することになりました。
ところが蒋介石は、強権的で人権軽視の統治をしていたんですね。ある日その国民党の暴虐が原因でデモが起きましたが、それを国民党は軍隊まで使って弾圧しました。これが『二二八事件』と呼ばれるものになります。
それから人類史上最長となる戒厳令が敷かれて、何万人もの国民が国民党に殺されることとなりました。これを白色テロと言います。
犠牲者の多くは政治思想、というよりただ単に「将来的に害をなしそう」なんて理由で投獄されたり死刑にされたりしました。ちなみに今の台湾にある国民党は、この国民党と同じです。
時代が流れ1990年代になり、蒋介石が死んで、その息子の将経国が総統になり、将経国は戒厳令を解いたり本省人(元から台湾に住んでた人たち)を重職に着かせるなどして、徐々に台湾を「本省人のための国」に変えていきました。
ところがある日、その将経国が突然死にます。その結果、そのときに副総統であり本省人でもあった李登輝さんが臨時で首相になり、その直後の普通選挙で改めて総統に選ばれることになりました。李登輝さんはのちに「台湾民主化の父」と呼ばれるほど、台湾を民主化に導きました。こうしてようやく台湾は民主主義の国へとなったわけです。
ちょっとおおざっぱ過ぎるのはわかってて、間違ってたらごめんなさいなんですが、自分の中ではこういう理解です。
こういう人権弾圧の黒歴史を忘れないために、台湾政府はこの人権博物館のような施設を各地に作って、台湾がどうやって民主主義を勝ち取ったかを学ぶ場としました。この人権博物館はそういう展示をしてある施設になります。
施設の紹介
白色テロの時代は、とにかく人権を無視した弾圧、逮捕、拷問が多かったと聞きます。その象徴的なところがこれ、軍事法廷です。
台湾のホラーゲームに『返校』というのがあって、そこにもこの軍事法廷の様子なんかが描かれていたりして、知識としては知ってはいましたが、やはり実物を見ると「おぞましさ」がこみあげてきますね。
当時は政治犯が簡単に死刑になる時代だったので、台湾の人たちは日本に逃れて、日本で政治連盟などを作って民主化運動を続けていたりしましたが、その「日本での活動」が理由で死刑になったりもしていました。
この文章は、『台湾青年独立同盟』という民主化運動組織を日本で立ち上げたことを罰する裁判記録になります。
外に出るとこういう変わったオブジェクトがあるのですが、これ、何かわかりますでしょうか。
右側をよく見ると、プレートが何枚もあって、その1枚1枚に人名が書かれているのがわかると思います。このプレートは、全て「白色テロ時代に不当に殺された人たち」のリストなんです。
これだけじゃありません。まだ奥にも、その裏にも、大量に名前があります。白色テロ時代には数万人の政治犯が死刑になったと言われていて、しかも収監されていた牢獄も衛生状態が酷く、病気で死ぬことも多かったそうです。
もちろんそれだけでなく拷問で死ぬ人もあり、たとえ死んでいなくとも障害が残ったりと、被害者が莫大であったことは想像に難くありません。
当時の牢屋を再現したものがありました。
次に、この画像を見てみてください。この青い点、何かわかりますでしょうか。
そう、この青い点は『人』です。『牢屋にどれほどの人数が詰め込まれていたか』を表しています。当たり前ですがこんな状況ではまともな衛生環境なんて望めるわけもなく、病気でも多くの人が死んでいきました。
1970年頃(ちょっと時期はよくわかりません)からは、こういう鉄格子の牢屋も出て来ましたが、それでも6畳の部屋に20人ぐらいが押し込められることもあったそうです。
部屋に水道なんかあるはずもなく、洗濯や食器洗いは「トイレの水」でしていたそうです。想像を絶する人権侵害ですね。熱気と臭気も酷く、とても人が暮らせる環境ではなかったことが伺えます。
時代が進むと多少環境は良くなっていて、食事をする食堂があったり、図書館があったりしたようです。囚人は基本的に労務を与えられていて、食事を作る係を与えられた人は、稀に市場に買い出しに出ることができたそうです。
また、医者だった人は刑務所内でも医者をすることがあり、医者に対しては看守の目も甘々だったらしく、たまに勝手に外に出たりできていたんだとか。厳しいんだか緩いんだかよくわからないエピソードも聞けました。
面会エリアも設けられていて、差し入れもできたようですが、貯金がなかった人たちは何も買えず、お金を持っていた人たちが分けてあげたりしていたそうです。
この白色テロ時代は実質的に外国でしか台湾民主化運動は行えず、日本でもこういう活動の機関紙が発行されたりしていました。
監獄の入り口にある噴水にあったシーサーみたいな像。名前ついてるんですが、忘れました。昔からあったわけではなく、近年に芸術家が設置したものだそうです。国家が二度と国民を弾圧をしないように監視する目、みたいな意味があったような気がしますがほんと覚えてません……すみません。
我們的世界不斷在開門
最後に、特別展示のこれを紹介します。我們的世界不斷在開門(我々の世界の門は常に開かれている)と書かれたイベント展示がありました。
「門」の字をモチーフにしたオブジェクト。この他にも、拷問の様子を絵にしたものなど、生々しい展示が多くありました。
二二八国家記念館
続いて、二二八国家記念館にも行きました。MRTの中正紀念堂駅のそばにあります。ここはエントランスが豪華。もともと台湾教育会館として作られたものを展示場に変えたので、こんな豪華な造りになってます。
ここにも人権博物館と同じように、白色テロの時代の人権侵害をテーマとした展示があります。例えば、弾圧から逃れるために狭い部屋に隠れていた人がいて、その部屋を再現した展示がありました。実際に中に入ることもできました。
こんなところに17年間も隠れ住んでいたそうです。そうまでするほどに逮捕を恐れてたんですね。捕まればまともな裁判を受けることもできず、高確率で死ぬわけですからね。自分だってそうしたかもしれません。
日本が降伏したときの記事。
台湾の島の形をした展示が床に埋め込まれていました。我々は多くの犠牲者の上に立っている、という意味でしょうか。
おわりに
人権博物館の展示、それと昨今のウクライナをみて、「自由」は人命に勝るとも劣らない、守るべき大切なものであるということを再認識させられました。
民主主義がなければ、自由は守られない。自由が守られなければ、人権も守られない。人権が守られなければ、人命も守られない。台湾の人たちはそのことを歴史から学んでいるわけですね。
日本には「戦争さえしなければ平和」と言ったことを平気で言う人たちもいますが、侵略されて国家の独立と民主主義が守られなくなれば、結局最初に犠牲になるのは一番下にいる国民です。
台湾はそのことを教えてくれています。日本は台湾から、自由と民主主義、そして国家の独立がどういうことかを、もっと学ぶべきだと思いました。
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