破れた日
今どこにいるのか、自分が誰なのかすらわからない。
あらゆる光、音、感触、味、匂い、その他形容できない微細な何かに飲み込まれている。
時折微かに聞こえる電子音と、鳴り止まない強い鼓動によって、辛うじて身体との繋がりを保っていた。
…
虚ろな気分で日々を過ごしていた。
何のために生きているのか、さっぱりわからなかった。
自分の存在に疑問を持つミュウツーのことを一切馬鹿にできなかった。
「別に生まれたいと思ったわけではない」
「子供が生まれるかどうかは、完全に大人の都合によるものだ」
なんて擦れたことを考えてしまう自分も好きになれなかった。
自分が女であること、やや人目を引く容姿であることも、
スパイには向いてないなと思うだけで別段どうでもよかった。
きちんと面倒を見れないのなら作るんじゃないと何度も思った。
こんな苦痛の多い世界に連れて来ておいて、なぜ。
将棋も別に好きじゃなかった。
たまたま同じクラスに将棋好きな子がいて、指し始めるようになったというだけのこと。
彼の名前を仮にNとする。
世話好きな彼は、私が聞いてもいないのに
「最初に指すなら棒銀がいいよ」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「今この戦法が面白い」
「あいつは俺が真面目に話しても聞いてくれない」
などと話し続けるのだった。
そのうち休み時間に盤駒を持ち出して彼と将棋を指すのが習慣になった。
彼はとても楽しそうだったが、私は特に楽しくない上に負けるとイライラした。
検討のときの穏やかな口調からして、負かした相手との会話に慣れているようだった。
このときは気づいていなかったが、いつの間にか彼を倒すことが目標になっていた。
ある日の休み時間。
「力試しに大会に出てみるのもいいかもね」
「私みたいな初心者が出られる大会なんてあるの?」
「あるよ。そもそも級位者のほうが人口が多いしね」
大会という言葉自体にイメージが沸かなかった。
なぜ出ようと思ったかのか今でもよくわからないが、
何か予感のようなものを感じたことを覚えている。
「まあ、出てみようかな」
「OK。場所はN町のS道場、日時は……はいLINEで送っておいた」
「ありがとう」
よくわからないけど、まあ、出てみるのも悪くはないか。
大会前日の夜に彼から丁寧なリマインドが来て、
マメなやつだなと思いながら既読無視して寝た。
…
大会当日。
将棋の道場というものがあること自体友人から聞くまで知らなかったし、
道場と言うからには和室なのかと思っていたら普通の雑居ビルの一室にあって拍子抜けしてしまった。
部屋に入ったときの第一印象は「暑苦しい」だった。
部屋自体はかなり広いのに、あまりに人が多い。
こんなに将棋を指す人がいるのか。
(帰りたいな……)
私以外に女性の参加者がほとんど居ないらしい。
知らない人に囲まれるのも好きじゃないし、居心地が悪かった。
しかし、あれほど熱心に勧められた手前、帰りづらい……。
どうしようか迷っていると、締め切りを注意するアナウンスに急かされ、参加登録をしてしまった。
しばらくしてトーナメントが発表され、対局が始まった。
対局時計に慣れておらず何度か押し忘れたものの、
一局目、二局目ともに相手が自滅して自然と勝ちになっていた。
ただ駒を動かしただけで、内容も覚えていない。
三局目の相手は強かった。
これまでの相手とは違い、私が指した手に適切に反撃して駒を奪っていく。
(まあ、こんなものか……。みんな将棋が好きで大会に出てるのだろうし、
経験のない私が勝てるほうがおかしい……)
やや諦めながら指し、局面が進んでいく。
しかし、局面が悪くなるにつれて私の負けん気が顔を出し始めた。
それは友人と将棋を指すときにだけ出る私の一面だった。
普段一切感情的にならない私がたかが将棋で悔しがるということに気づいたとき、
内心かなり驚いたし、同時にそうした自分を受け入れられなかった。
(簡単に負けてやるかよ)
気付かないうちに盤面に集中していたらしい。
周りの音が聞こえなくなり、頭に自分の読みだけが広がっていく。
深い水底に潜っていくように、ただ盤面にのみ集中し、読み続ける。
そして、逆転の手を探し続けて迎えた終盤に、
その瞬間は訪れた。
(あ)
洪水のような、あるいは噴火のような感覚があった。
あまりに急で驚く暇もなく、抗うこともできず、ただ大きな力に飲み込まれていく。
噴き出してきたもの。
それは今までずっと抑え続けて感じなくなっていた感情――憤怒であり、苦悩であり、悲哀であり、そして、小さな喜び――。
この世に生を受けてから今までの記憶、それも普段は欠片さえも思い出せないものたちが、脈絡なく、際限なく噴き出しては流れ、消えていく。
(あああ)
――初めて学校に入学したときの不安、気になっていたあの子、親の金を盗んだときの自己嫌悪、優秀な友人への嫉妬、未来への焦燥、――
呼吸は浅くなり、脳は沸騰し、手は震えている。
意識と身体が分離と統合を繰り返し、今座っている盤の前とそうでないどこかを何度も行き来する。
(ああああ)
――森林公園の風の匂い、お風呂での鼻歌、スキー場のリフトからの眺め、生まれて間もない子猫の柔らかさ、傘を忘れて歩いた雨の日、――
口は乾き、耳は聞こえなくなり、目は霞んでいる。
時間の感覚も空間の感覚もないまま、誰かの手が駒を持って動かし、時計を押す。
相手が指し、時計を押す。
その度に違う記憶が噴き出し、飲み込まれる。
強すぎて抗えない流れの中で、必死にもがいて浮き上がろうとする。
その度に別の流れに飲まれていく。
誰かが怒っていて、泣いていて、笑っていた。
(そうか)
走馬灯というのはこういうことを言うのだろう。
こんな経験はしたことがなかった。
いつから自分を抑えつけるようになったのか、もう覚えていない。
どこにいても虚ろで、何も感じないまま過ごしていた。
気がついたときには、何をするにも薄い膜に隔てられているような感覚があった。
それがこれほど簡単に破れてしまうものだったとは。
(私は)
噴き出してきた感覚、記憶は、全て私そのものであった。
どの場面であっても、それがどれほど些細なものであったとしても、
確かに私が経験し、そして忘れていたものだった。
そして私は今、将棋を指している。
ああ、しかし、たとえこの小さな盤上の出来事だとしても、
この生死の境目、命の瀬戸際に立って初めて、私は私の命の存在を確かめている。
(私は、生きていたのか――)
…
三局目には勝ったらしかった。
終盤の相手の緩みを突いたらしい。
その後四局目であっさり負けてしまい、私の大会は終わった。
「やあ。終わったみたいだね」
全ての輪郭がぼやけていて、彼の言葉を理解するのに時間がかかった。
「なかなかいい顔をしてるね。ある種の達成感を得たような、
いや、どちらかと言えば背負っていた荷物を下ろしたような感じかな」
何も考えられず、ただ彼の顔を見つめる。
彼はしばらく黙った後、穏やかな表情でこう言った。
「将棋を指していて、よかったね」
(将棋を、指していて……)
「……そうかも、しれないね」
おぼつかない足取りで帰宅し自室に戻ると、猛烈な悔しさが込み上げてきた。
どうにも我慢できずに、本棚にある本、クロゼットにある服、カバンの中身まで全て床に投げつけ、
言葉にならない声を出し、ひとしきり泣いてベッドに倒れ込んだ。
「つかれた……」
ベッドの柔らかさを感じながら、何も考えられない頭で今日のことをぼんやり考える。
色々なことがあったような気はするものの、よく思い出せない。
(まあ、でも)
何にせよ。
過去がどうであれ、未来がどうであれ。
もう少しの間、生きてみるのも悪くないのかもしれない。
見たいものも食べたいものも、まだあるような気がする。
それに。
(N、お前は絶対倒すからな。
首を洗って待っていろ!)
ふ、と笑って、そのまま眠りについた。
悔しさと疲労感に、少しだけ、心地良さを感じながら。
開始日時:Jun 9, 2020 9:13:12 PM
棋戦:Free Game Room(normal-timelimited)
手合割:平手
先手:* zinnba(1550)
後手:* kumada_(1550)
手数----指手---------消費時間--
1 2六歩(27) ( 0:02/00:00:02)
2 8四歩(83) ( 1:18/00:01:18)
3 2五歩(26) ( 0:33/00:00:35)
4 8五歩(84) ( 0:03/00:01:21)
5 7八金(69) ( 0:02/00:00:37)
6 3二金(41) ( 0:02/00:01:23)
7 2四歩(25) ( 0:03/00:00:40)
8 同 歩(23) ( 0:02/00:01:25)
9 同 飛(28) ( 0:02/00:00:42)
10 2三歩打 ( 0:03/00:01:28)
11 2六飛(24) ( 0:03/00:00:45)
12 7二銀(71) ( 0:06/00:01:34)
13 9六歩(97) ( 0:04/00:00:49)
14 9四歩(93) ( 0:12/00:01:46)
15 4八銀(39) ( 0:03/00:00:52)
16 1四歩(13) ( 0:12/00:01:58)
17 6九玉(59) ( 0:03/00:00:55)
18 4二玉(51) ( 0:22/00:02:20)
19 6八銀(79) ( 0:07/00:01:02)
20 7四歩(73) ( 0:25/00:02:45)
21 5六歩(57) ( 0:12/00:01:14)
22 3四歩(33) ( 1:08/00:03:53)
23 5七銀(68) ( 0:12/00:01:26)
24 8六歩(85) ( 0:23/00:04:16)
25 同 歩(87) ( 0:03/00:01:29)
26 同 飛(82) ( 0:02/00:04:18)
27 8七歩打 ( 0:02/00:01:31)
28 8五飛(86) ( 0:05/00:04:23)
29 4六銀(57) ( 0:07/00:01:38)
30 7五歩(74) ( 1:07/00:05:30)
31 5五歩(56) ( 0:09/00:01:47)
32 7三桂(81) ( 0:35/00:06:05)
33 5九金(49) ( 0:48/00:02:35)
34 8四飛(85) ( 0:27/00:06:32)
35 3六歩(37) ( 0:17/00:02:52)
36 4四角(22) ( 2:21/00:08:53)
37 3五歩(36) ( 0:07/00:02:59)
38 同 歩(34) ( 0:13/00:09:06)
39 3七桂(29) ( 0:08/00:03:07)
40 2二銀(31) ( 0:15/00:09:21)
41 4五桂(37) ( 0:15/00:03:22)
42 5二玉(42) ( 2:15/00:11:36)
43 7九角(88) ( 1:40/00:05:02)
44 6二玉(52) ( 1:35/00:13:11)
45 5七角(79) ( 0:22/00:05:24)
46 7四飛(84) ( 0:08/00:13:19)
47 5四歩(55) ( 0:16/00:05:40)
48 同 飛(74) ( 0:22/00:13:41)
49 7五角(57) ( 0:11/00:05:51)
50 8八歩打 ( 0:34/00:14:15)
51 同 金(78) ( 0:08/00:05:59)
52 7四飛(54) ( 0:53/00:15:08)
53 6六角(75) ( 1:05/00:07:04)
54 同 角(44) ( 0:51/00:15:59)
55 同 歩(67) ( 0:07/00:07:11)
56 6七角打 ( 0:49/00:16:48)
57 7八金(88) ( 1:10/00:08:21)
58 5六角成(67) ( 0:15/00:17:03)
59 3三歩打 ( 0:12/00:08:33)
60 同 桂(21) ( 0:41/00:17:44)
61 同 桂成(45) ( 0:06/00:08:39)
62 同 銀(22) ( 0:08/00:17:52)
63 5七銀(46) ( 0:05/00:08:44)
64 5五馬(56) ( 0:52/00:18:44)
65 5六角打 ( 0:16/00:09:00)
66 2四飛(74) ( 0:55/00:19:39)
67 同 飛(26) ( 1:26/00:10:26)
68 同 歩(23) ( 0:12/00:19:51)
69 2一飛打 ( 0:11/00:10:37)
70 4二銀(33) ( 0:55/00:20:46)
71 4一飛成(21) ( 0:07/00:10:44)
72 5六馬(55) ( 0:56/00:21:42)
73 同 銀(57) ( 0:03/00:10:47)
74 3四飛打 ( 0:38/00:22:20)
75 4五銀(56) ( 0:36/00:11:23)
76 3一金(32) ( 0:29/00:22:49)
77 4二龍(41) ( 0:39/00:12:02)
78 同 金(31) ( 0:03/00:22:52)
79 3四銀(45) ( 0:01/00:12:03)
80 5六角打 ( 0:38/00:23:30)
81 3一飛打 ( 0:17/00:12:20)
82 7四桂打 ( 0:28/00:23:58)
83 5七歩打 ( 0:14/00:12:34)
84 7八角成(56) ( 0:54/00:24:52)
85 同 玉(69) ( 0:03/00:12:37)
86 8六歩打 ( 0:48/00:25:40)
87 同 歩(87) ( 0:19/00:12:56)
88 8七歩打 ( 0:42/00:26:22)
89 8二角打 ( 0:17/00:13:13)
90 8八飛打 ( 0:52/00:27:14)
91 6七玉(78) ( 0:06/00:13:19)
92 8一金打 ( 0:41/00:27:55)
93 7一銀打 ( 0:57/00:14:16)
94 同 金(81) ( 0:50/00:28:45)
95 5一角打 ( 1:19/00:15:35)
96 同 金(61) ( 0:48/00:29:33)
97 7一角成(82) ( 0:05/00:15:40)
98 同 玉(62) ( 0:16/00:29:49)
99 5一飛成(31) ( 0:04/00:15:44)
100 8二玉(71) ( 0:47/00:30:36)
101 7九金打 ( 0:08/00:15:52)
102 7八角打 ( 0:58/00:31:34)
103 同 金(79) ( 0:16/00:16:08)
104 同 飛成(88) ( 0:55/00:32:29)
105 同 玉(67) ( 0:02/00:16:10)
106 6六桂(74) ( 0:53/00:33:22)
107 6八玉(78) ( 0:15/00:16:25)
108 7九銀打 ( 0:53/00:34:15)
109 6七玉(68) ( 0:01/00:16:26)
110 7八角打 ( 0:19/00:34:34)
111 投了 ( 0:04/00:16:30)
まで110手で後手の勝ち
あとがき
こちらは「第2回 局面に無駄ストーリー込める選手権」に投稿した作品です。
鷺宮ローランさん主催の企画で、自分の指した将棋の局面図から小説を書いて楽しもうというものです。
熊田の2作目の小説になります。
他作品も含めて朗読してくださっているので、気になる方はアーカイブをチェックしてみてください。
将棋はのりたま将棋クラブでのリーグ戦のものです。
頑張って将棋をやってたときのやつですね。がんばってる!
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