高僧名僧が死ぬ間際に死にたくない死にたくないとだだをこねる話(書評のようなもの)
高僧、あるいは名僧が死ぬ間際に死にたくない死にたくないとだだをこねるっていう話、逸話をたまに耳にしてきたんだけど、そういう言説って若干僧侶に対して批判的なんだけど(なーんだぜんぜん悟ってないじゃーん、庶民と何も変わらないじゃーん、みたいな感じ)
自分は、批判的というより純粋に不思議だなあと思っていた。
でもこの本に概ね答えが書いてあったように思う。
高僧や名僧は欲を強く律してきた結果として「有愛」が強くなる(肥大する)のだと。
「有」は存在、「愛」は渇愛なので「欲望」みたいな感じ
存在したい、存在し続けたいという欲望が強くなる。。その理由は、今ふうにいえば社会貢献欲なんだろう。
お坊さんでいえば、ブッダの教えを広めたいというかなり純粋な欲求を、苦行を積んだ高僧になるほどにお持ちなんだと思う。広めるまでは死ねんと。それを公言はしていないんだろうけども。
もちろん高僧、名僧ですーっと召される方もいるし、それは一般人も変わらない。
ただ、一般人が死にたくないとだだをこねる理由はどちらかといえば「欲愛」によるものなんだろう。それは間違いなさそう。
欲愛はまぁ煩悩と訳しておけば概ね外れてないと思う。
一般人は欲愛を律しないから欲愛により往生際が悪く、高僧は欲愛を律した結果有愛が強くなり、一部の方は強くなりすぎてこれも往生際が悪くなると。
面白い。。じゃあどうすればいいかといえば、律するよりも「昇華」させることなんでしょうね。
どうしたら昇華させられるか?の答えはもう(世の中に対しては)出ているし、これを語り出すとかなり長くなりそうなので(ただでさえ今長いのに💦)省略
一方で、それよりももうひとつ書きたかったことがあって。
無有愛、非有愛という言葉もあり(初耳)、つまりはそれと真逆ということなんだろう。存在しないことへの(強い)欲望
を、人間は持っている、持ってしまうと。
これをストレートに自殺願望と解釈するのはなんのひねりもないし、「消えてなくなりたい」ともまたちょっと違うような。
まったくもって私の個人的解釈ですが、これは、「宇宙の果てはどこにあるんだろう」とか、「自分はなぜ生まれたのか?」みたいな根源的な疑問にきわめて近いような気がします。そういう深淵に触れるか触れそうになるときってちょっとざわっとしませんか。あの感覚そのものが欲望。。というか、実は快を感じてるんじゃないだろうか。
キーワードはたぶん「虚無」なのかな。虚無への回帰欲求を人間は間違いなく持っていて、それは別に死ななくとも実現できるというかね。「ゾーン」もわりかし近いような気はしている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?