わが家がホームエデュケーションをしていて、一番心がゆらいだ時期のお話
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わが家がホームエデュケーションを開始したのは、2011年6月ですが、
一番わたしの心がゆらいだのは、2015年~2016年の約2年間で、
第2子が小学校1年生~2年生の頃でした。
2011年~2014年の時期は、オルタナティブ教育への情熱がメラメラと
燃え上がっていた時期で(笑)、
なおかつ、第1子はノーマルタイプ(定型発達)の子ども
& 子どもたちは3人とも赤ちゃん~低学年の頃だったので、
まずまずイメージ通りの順調なホームエデュケーションでした。
そしてその後、
2015年に発達凸凹の第2子が小学校の特別支援学級に入学しました。
第2子はすぐに「まだら登校」になりました。
第2子の「学校がイヤ」な理由は主に4つでした。
【1】発達凸凹(極度の不安症)
【2】感覚過敏(匂い、音)があるため学校環境が合わない
【3】HSC(人いちばい敏感な子ども)
【4】学校の授業レベルが合わない(学習障害の傾向あり)
2015年当時、わたしの最大の葛藤は、
◇発達凸凹の我が子を自分の責任で育てられるのか?
◇小学校の特別支援学級の先生方は
「その道の専門家」なのだから、
「学校がイヤ」な我が子だけれども、
専門家にお任せした方がいいのかもしれない??
というものでした。
でも・・・・・
当時は、朝から放課後までずっと、
第2子に付き添ってわたしも小学校に居ましたが、
◎聴覚過敏で学校のチャイムで耳が痛い。
◎子どもさんたち特有の甲高い声で耳が痛くなる。
◎不安症で、初めてのモノ・人・場所に対して大変な恐怖を感じる。
◎大人数がいる空間、体育館などのだだっ広い空間もいや。
などなど、
怖いものだらけに囲まれた第2子は、
学校内ではまるで能面をつけたような無表情&全身のこわばり&涙をこぼしていました。
そして・・・どうにもこうにも耐えられなくなり、
放課後を待たずに早退する日々。
でも、一歩、校門の外に出たら、
だんだんと緊張がほぐれて、
近所の原っぱに立ち寄ると、晴れやかな顔に戻る第2子。
その後も、わたしの葛藤はしばらく続きましたが・・・
「第2子にとって、いかに小学校が合わないか」を感じ続け、
その一方で、
家庭内や、オルタナティブスクール『地球の家』では
伸びやかに生き生きと過ごす姿を見て・・・
やっと、
『この子が笑顔になれる環境が一番』
『わたしは発達障害の専門家ではないけれど、
わたしが ‟この子の専門家” になればいい』
・・と、腹をくくり、
改めて、
『ホームエデュケーションで行く!!!』
と心を決めたのでした。
まだら登校の時期には、
学校の先生方が、善意で、
「早く学校に戻れたらいいですね」
と笑顔で優しく声をかけてくださっていましたが、
能面の表情、
全身のこわばり、
涙、
家で叫びながら学校を拒否する我が子の姿を見ている母親としては、
「早く学校に戻れたらいいですね」
の言葉は、
プレッシャー以外の何物でもなく、
「学校に戻ること」=「泣きわめく我が子の復活」を、
これっぽっちも望んでいませんでした。
でも、強く葛藤していた時期は、
「早く学校に戻れることを望んでいるのではなく、
我が子が伸び伸び・生き生きと育つことができる
環境を望んでいます」
と、先生方に伝えられずにいましたが、
『この子が笑顔になれる環境が一番』
『わたしは発達障害の専門家ではないけれど、
この子の専門家になればいい』
・・と、
腹をくくったあと、
校長先生宛てに、
「いつも温かく接して下さりありがとうございます。
子どもの心が、自然に学校に向くまでの間は、子どもが安心できる家庭とフリースクール(※)で育てていきたいと思います。
もしも、子どもの心が学校に向いたそのときは、またお願いします。
いつも、先生方は登校促しをしてくださっていますが、
それがわたしたち親子のプレッシャーになっておりますので、
今後は、登校を促す言葉がけは一切不要です」
・・・というような趣旨の
文章を書面でお渡しさせていただきました。
※フリースクール・・・オルタナティブスクールという言葉がまだ一般的ではないと思ったので、地球の家は正式にはオルタナティブスクールですが、フリースクールと表現していました。
その後は、先生方の登校促しもなくなり、
晴れ晴れとした気持ちで、家庭を拠点にして育っています。
子育てしている上で、悩みがまったく無い・・・ということはありませんが、一人だけで悩まずに、子どもたちと相談しながら、夫に相談しながら、日々の暮らしや学びを創造したり、調整したりしています。
くまがい あきこ
※アメブロも書いています
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