「気づき」ってキレイゴト?
気づきについてあれこれ書いていると
お前の言うことはキレイゴトだ!と言われた時の記憶が
ふと浮かんできました。
私は気づきをnoteに書いてるだけじゃなくて
仕事にも持ち込んで
提案したり、ファシリテートするときに伝えたりと
実践を意識しています。
でも残念ながら、伝えた言葉を快く思わない人もいて
キレイゴトだと批判されることがあります。
現実を見ろと。
自分の宝物を批判された…
という悔しい気持ちも正直あるのですが
確かにそうだなとも思うのです。
あらためて
気づきってキレイゴトなのだろうかと
考えてみました。
言葉の意味が曖昧だったので
調べてみると、二つありました。
大抵は1の意味で使うと思いますが
2のようにポジティブな意味もありました。
意外です。
私を批判した人は1の意味で使ったのでしょう。
確かに、私の言っていることは
実情(現実)にはそぐわないことだったり
体裁だけを整えているように見えたのかもしれません。
ただし、”その人から見れば”
という条件付きなのではないかと思うのです。
気づきは
複雑で、細やかで、具体的な経験や問いの中から
ハッとすること、光り輝くこと、惹かれることを
言葉として(場合によっては絵や写真、音楽として)
結晶化したものだと考えています。
気づきを言葉にすることで
抽象的で、単純で、当たり前のようで、非現実的なような
表現になってくると思います。
気づきが、生まれるもとになった経験や問いから
分離されたようにみえるのですが
実際は、ずっと結びついているのではないかと思います。
キレイゴトだ!という方と、私が違う点は
気づきが何から生み出されたのかという記憶の有無です。
植物の種子が飛んでいった先に
芽吹くための豊かな土壌がなかったら
育つことができません。
キレイゴトだ!と言う方の記憶には
その気づきが生まれる土壌となる
経験や問いが存在しないんだと思います。
逆に、誰かの気づきが
それっていいね!
そう言われたらそうだ!
と思えたら
記憶のどこかに
共通する経験や問いが
あるんだと思います。
気づきは
ある人にとってはキレイゴトにも見えるし
自分にとっては美しく光って見えるもの。
気づきと結びつく、経験や問いの記憶の有無が
その違いをつくる。
だから、誰かにキレイゴトだ!と言われたからと言って
光を失うことはない。
ただ堂々と、大切にする。
それでいいんだと分かりました。