ティアドロップのしらべ
「私のかたつむりはうまく動いてくれないのです」
雨だれが風に乗って聞こえた日。楚々とした字が訴えかける。顔を上げると彼女は耳を指さし、困ったようにやわらかくはにかんだ。彼女は僕の本屋の常連客で、以前から本を丁寧に扱う姿が記憶にあったが、この日はそっとしずく型のブルーの付箋を差し出してきた。
「耳が聞こえません。注文したい本がありますがよろしいですか?」
下には題名と著者、出版社が書かれている。僕は付箋に「承知しました」と鉛筆で返事をした。
彼女は返事の代わりなのか、その下にツノを出したかたつむりの絵を描いた。僕はそのユニークさに思わず微笑んだ。僕と雨宮さんとの交流はここから始まった。
静かな店内。窓から入る光は付箋に影を落とす。鉛筆とペンの走る音が入れ替わる。彼女の蝸牛を介さなくとも、僕たちのことばは紙面で光と影の隙間を自在に踊った。
僕はいつしか彼女との筆談を楽しみに待つようになった。その時だけは刻がゆったりと流れる。
幾度となく対話を交わしてきたある日、雨宮さんは強くまっすぐな眼差しを向けて「突然なのですが」と前置きをし、あるお願いをしてきた。それは彼女が持参したCDを聴いて感じたことを教えてほしいというものだった。僕は「お店が暇な時であったら」と提案を快く受け入れた。
曲は1日1曲。
ベートヴェンの曲が多い。
店内は心地よいメロディとカリカリと僕の鉛筆を走らせる音が響く。彼女の射干玉のような澄んだ黒い瞳は熱心に文字を追っていた。
僕は聞き慣れないクラシック音楽に戸惑いながらも、思いついたイメージを彼女に伝え続けた。
その日の楽曲は、ピアノソナタ第8番ハ短調作品13第2楽章。
僕は「悲痛な心の叫びはさざ波のように押し寄せ」「絶望と希望を抱いて愛おしむ」と記した。
しばらくして顔を見上げると、雨宮さんの頬には一筋の涙が光っていた。
驚く僕に臆せず、彼女はこのように記した。
「難聴のベートーヴェン。心豊かな旋律が、私の中に広がりました。今までありがとうございました」
彼女はお辞儀をして、突如お店を飛び出した。僕は離れていく彼女の後ろ姿を窓から眺めた。
秋雨が落ちはじめた。
店内に静けさが戻り、しずくの付箋だけが残る。僕はそれを壁に貼る。白い壁の一粒のしずくは、まるで彼女の涙のようだった。そしてそれ以来彼女はお店に訪れることはなかった。
葉が赤く色づく頃。一通の手紙が僕に届いた。雨宮さんからだった。
付箋のかたつむりを眺めた。
店内に「悲愴」を流す。
しずくの付箋を全て壁に貼った。
涙は流れ、弔いの声が聞こえた。
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ピリカさんの企画に参加させて頂きました。
ありがとうございました。