生きているということ
道端に死んだカマキリがつぶれていた。
そこは田舎で、まわりは草むらが広がっている。平屋の家屋がぽつぽつと見える。
どこかから、川の流れるような湿り気のある音がかすかに聞こえてきて、柿の木の頭上に残された一個の柿が、さみしくぽつんと存在していた。
鬼ゆずは枝葉を大きく下方にしならせ、今にも枝が折れてしまいそうな重さを保ちながら、少しずつ緑から黄へと色づいてきている。
北から寒気のこもった風が時折背中をなでていく。
カマキリはおそらく何度も車にひかれたのかもしれない。
私の右隣にいる同行者が使用しているシルバーカーにひかれるたびに、カマキリは小さくぺしゃんこになった。
「死」は思ったよりも身近にある。
石ころのように転がっている。
「生」もここにあるはずだが、それは、簡単に説明できるものでもないのだろう。
最近、作り話を書いている。
技術も、知恵もないものとして、大したものは書けない現実だけが目の前にあるが、唯一、気をつけねばと思うのが、なにごともそれはわかりやすい顔をしていないことだ。
人から見たらしあわせそうで、とんでもない地獄を背負っている人もいるし
辛い境遇で救いようがない人だって、ちいさなユートピアのような楽園を持っているかもしれない。
誰だって、
きっと、相手もわたし自身も
得体がしれないし
うすっぺらくわかりやすいものなんかでもない。
谷川さんが書いているとおりに
それは無口で不気味なものであると、私も感じる。
何ヶ月か前に購入した「ひとり暮らし」をまた今夜読もうと思う。
ご冥福をお祈りいたします。
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