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生きているということ

道端に死んだカマキリがつぶれていた。

そこは田舎で、まわりは草むらが広がっている。平屋の家屋がぽつぽつと見える。

どこかから、川の流れるような湿り気のある音がかすかに聞こえてきて、柿の木の頭上に残された一個の柿が、さみしくぽつんと存在していた。

鬼ゆずは枝葉を大きく下方にしならせ、今にも枝が折れてしまいそうな重さを保ちながら、少しずつ緑から黄へと色づいてきている。

北から寒気のこもった風が時折背中をなでていく。

カマキリはおそらく何度も車にひかれたのかもしれない。

私の右隣にいる同行者が使用しているシルバーカーにひかれるたびに、カマキリは小さくぺしゃんこになった。

「死」は思ったよりも身近にある。
石ころのように転がっている。
「生」もここにあるはずだが、それは、簡単に説明できるものでもないのだろう。


 生きるのと生活するのを分けることの出来たのが、私の青春でした。そういう観念を抱いたのが幸運だったのか。不運だったのか。生活から離れた生なんてありえないと今の私は思いますが、詩に求められているのはもしかするとそういう瞬間ではないかと思います。

 生活を成り立たせている、あるいは縛っているさまざまな事実だけが現実ではない、その底になまなましい生の現実がかくれている。生活の衣装をはぎとって、裸の生と向き合うのは恐ろしいけれど、甘美でもあります。ですがほんとうの「生」とは、そんな意識の介在を許さないかもしれない。

 「生きていてよかった」というような、通俗的な感慨の表現がどこかうさんくさく、気恥ずかしいのは、生きることの手ごたえはそんなひとことで言えるほど、やわなものでもうすっぺらなものでもないということを、私たちがちゃんと知っているからではないでしょうか。

ほんとの生はもっと無口で不気味だと私は思います。

「ひとり暮らし」谷川俊太郎

最近、作り話を書いている。

技術も、知恵もないものとして、大したものは書けない現実だけが目の前にあるが、唯一、気をつけねばと思うのが、なにごともそれはわかりやすい顔をしていないことだ。

人から見たらしあわせそうで、とんでもない地獄を背負っている人もいるし

辛い境遇で救いようがない人だって、ちいさなユートピアのような楽園を持っているかもしれない。

誰だって、

きっと、相手もわたし自身も

得体がしれないし

うすっぺらくわかりやすいものなんかでもない。


谷川さんが書いているとおりに

それは無口で不気味なものであると、私も感じる。


何ヶ月か前に購入した「ひとり暮らし」をまた今夜読もうと思う。


ご冥福をお祈りいたします。


死を報せる短い手紙が
路傍の名も知らぬ小さな花のように思えた
窓の外の豪奢な夕焼けを見ながら
死んだ友人の控えめな笑顔を思った

あっちにも日常はあるのか
それとも永遠しかないのだろうか
終わりのない雑事に紛れて
私は忘却への一歩を踏み出す

スカルラッティに身をまかせていると
心がゆるやかに波打つ牧草地に出た
霧雨のような後ろめたさに包まれて
私はまだ 生きている


佇む一頭の馬に自分をなぞらえて

「まだ」



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くま
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