見出し画像

トラバーチンを眺めていた

私は幼い頃から気管支喘息を患っていた。

最近skyfishさんの記事を読んで、このことをふと思い出した。

彼女は大人になってから、喘息を患った。この記事は猫のチーちゃんとお別れしなければならない過程を描いたお話だ。読んでいると切なくなる。

病と言うのは、おそらく、その人の人格形成にかなり影響を及ぼしているのではないか。

病によって制限されるもの、できないこと、普通じゃないこと、我慢しなければならないことがたくさんある。そして病をもつ人を取り巻く人たちもきっと同様で、制限されるもの、できないこと、普通じゃないこと、我慢しなければならないことがたくさんある、と思う。

制限されることをどのように取り払っていくか、不可能をどれくらい可能に近づけていくか、普通じゃないことはそもそも普通って何?と振り返り、我慢しなければいけないことは環境を変えてみたり、病をもつ人・取り巻く人々は何かと人一倍苦労をしていると思う。

そのような経過を経てきた人は、やさしい。

やさしい人たちがいる。


私のまわりにもやさしい人がたくさんいる。その人たちのことばに重みがある。様々なことに折り合いをつけてきたからこそ、紡がれることばはここにいていいよと重しをつけてくれたり、時には相手に羽をさずけるかのように軽い。


私はそんなまわりの人のようなやさしさを持ち合わせていないし、自分が苦労をしてきたなんてあまり感じていない。幸せにのほほんと暮らしてきた。

でもこの「気管支喘息」というものは
少なからず私の人格に影響を与えている。そして人生にも大きく影響している。

喘息発作というものは大体夜間に起きる。
私は呼吸が苦しくなり、横になって眠る事ができない。
両親や祖父母を起こして苦しさを訴えるが、所詮親たちもその場でできることが何もないので、一緒に少し起きてくれるものの、また眠りについてしまう。

私は1人起きて、椅子にもたれながら息が吸えない苦しさと睡魔が入り乱れた状態で明け方まで朦朧としていることが多かった。

朝になると父親が病院に連れて行ってくれた。
この病院は、当時、父親が勤務していた病院で、今私が働いている施設の隣にある病院だ。

そこでは点滴を打つ。

点滴はおよそ3時間くらいかかる。

私はいつも天井を見つめていた。天井にはいつも同じ柄が見えた。

このもじゃもじゃ、点々、ぴょんぴょんの模様をひたすら見つめるしかない。

隣の診察室の声が聞こえる。隣は整形外科で、お年取りが足が痛いだの腰が痛いだのと先生に話している。幼い私はそんな話に興味はない。片手は点滴につながれているので、体を動かす訳にはいかない。本が好きだが、あおむけの状態で片手で本を読むのは意外と難しい。

もじゃもじゃ、点々、ぴょんぴょんを見つめる。

ぴょんぴょんはかもめに見えるかも。

点々がどれくらいあるか数えてみよう。

私の暇つぶしはこの模様しかない。

あとは私の脳内空想マンガのプロットをひたすら想像するだけだ。

そのうちウトウトとまぶたが重くなる。

看護師さんに声をかけられる。

「お昼ご飯の時間だから、周りに誰もいなくなっちゃうけど、何か不安だったら、このベルを押してね。」看護師さんはにこりと笑みを携えて行ってしまう。

私はシンとした処置室に1人取り残される。静かになって目が覚めてしまった。

またもじゃもじゃ、点々、ぴょんぴょんが視界に入る。

あのもじゃもじゃは何だか苦しんでいる人の顔に見えないかしら・・・。

私は急に不安になる。昨日見たオカルト番組を思い出す。心霊現象・・・。

無理に楽しい事を考える。
呼吸はだいぶ楽になってきた。きっとこれが終わったら父親が家に送ってくれる。父親は受診後に売店のマンガや雑誌を必ず1つ買ってくれた。口数は多くなかったが、思いおこせばこの行動はせめてもの娘に対しての思いやりであったんだろう。今日は何のマンガを買ってくれるのだろうと、私は空想する。


最近Twitterを見たらこんなことが書いてあった。

へえ、私と一緒にいたのは「トラバーチン」という名なのか。

いろいろ調べると正式には「化粧石膏ボード」というらしい。でも私の中ではトラバーチンと呼ぶ事にする。なんかかわいいじゃないか。あのもじゃもじゃ、点々、ぴょんぴょんに名前があるなんて考えもつかなかった。

私は成人する位まで、このトラバーチンをよく眺めていた。高校生の時はトラバーチンと一緒にいすぎて高校を中退している。

トラバーチンに育てられたのかもしれない(これは違うかもしれない)

私の親は実はトラバーチンだったのかしれない(これは絶対違う)

よその子が友達百人作る間に私はトラバーチンとお友達になっていた。

今でも、施設の隣の病院へ書類を届けたりすると、トラバーチンは相変わらずそこにいて、もじゃもじゃ、点々、ぴょんぴょん振りはまだ健在だ。
「よう、元気かい。君も長いね」なんて余裕で声をかけられるほどに、私は強くなっている。トラバーチンを眺める事はほとんどなくなった。

そんなことで自分の成長を感じたりしている。


※ skyfishさんの記事をおかりしました。いつも素敵な記事をありがとう。

サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。