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【企画参加】わたしの反抗期

かすみさんの企画に参加します。

しますっていうか

させて下さい!

むしろ、ここで働かせてください!
(千と千尋の神隠し風に)

「かすみーる」こと、かすみさんにはいつも「くまこちゃんくまこちゃん」とかわいがってもらっております。

ありがたいことです。

かすみさんの魅力は一言では言えないのですが、まっすぐさ、熱心さ、がんばりやさん、ポジティブさ、やさしさ、あんたがたどこさ.....みたいなそういうことばあそびもできる感じも含めて、楽しい人だなと思っております。(「さ」があまりにも続いたものでついつい)

がんばり....マッスル!といつも自分自身はもちろん、まわりのいろいろな人を鼓舞してくれています。

あと、かなりの分析家さんです。
相手が見えていないところが見えているのだろうなと思うのです。見ようと意識してるのかしてないのかもわかりませんが、見えちゃってるんだと思うんです。たぶん。
それを的確にいいタイミングで、かすみさんらしく手渡してくれます。ご本人はきっと自分で相手をサポートする役割が好きなんだろうな~って、何となく思っています。思っているんですけどね、そうは問屋が卸さないというか、どうしても台風の目みたいな時があります(笑)でも、それもきちんとこなせる底力がちゃんとあるんだよ。すごいんだよ。そして謙虚。また、お茶目に素直に賞賛を受け取っているのもかわいいところです。



そんなかすみさんがみんなに渡してくれた企画が今回の企画。「反抗期を綴ってみよう」という発想がおもしろいですよね。

もうすでにいろいろな方が個性的に参加されていて....私....私....参加していいのかしら?と思いながら、書き始めました。


と、いうのも

私もご多分にもれず

自分の反抗期がわからない人なんです。


記事を読む限り、他の方も案外多い印象です。


たぶん私生活で普通に聞かれたら

なかった

って答えていると思います。

「このクソババア!」

なんて母親に言ったことはないですし

盗んだバイクで走り出したりしたこともありません。(たぶん、盗んだバイクで取り乱すタイプです)

私のすぐ下の妹は一時期「クソババア」とか、舌打ちしたりとか、まじうざい!みたいな態度を母親に取っているのは見かけたのですが、私はそれを見て「こわやこわや、近づかんとこ」と思っていたくらいなので、たぶんそのような態度を取ることはなかったんじゃないかなと思われます。

そんな私が何を書く……?

と早くも迷子になりかけたのですが、さすがかすみさん。

かすみさんとのやり取りの中で私の反抗期が出てきました。


たぶん、私の最大の反抗期って

高校を中退したこと


だと思いました。


私は高校一年生の時に高校を中退いたしました。

......こうやってカミングアウトするとですね、だいたいの人はさーーっと引き潮のようにひいていきます。

それはもうわかりやすく。
いくら鈍感な私でもわかります。

そして、なんだか知らないけどそのあと励まされたりもします。

あとは、昔はワルだったのか....?!とあらぬ疑いをかける人も出てきます。

いやいや、持病がありましてね....と説明するんですが、私はこの話に関しては決して励まされたり「高校卒業しないでここまでやってきたのえらいじゃん」みたいに褒められるようなことでもないのかなと思っています。

もう、その選択肢しかなかったんです。

自分の中であの時はその選択肢しか選べなかった。


そう思ってます。


というか全部そんなもんですよ。

「たられば」はないんです。

私はいつもそこしか選べないんですよ。いつもたらればはない。

だから高校を辞める時も、もうそれしかなかったので悔いとか後悔はなかったんですよね。

気管支喘息の発作が続いて出席日数が足りずに、私は一度留年をしています。

2回目の春。私はまた同じ高校の1年生でした。

正直言うと、あの時よく行ったなって思います。同じクラスだった人たちはもう2年生に上がっている訳ですからね。

同じ教室だけど、まわりの子だけ一新されているんです。

一番覚えているのが、新学期はじめての音楽の授業です。自己紹介をすることになったのですが「どこの中学出身か」を言うようにと先生が話し始めました。

先生側は私に対する配慮からなのか、授業が始まる前にわざわざこんなことを言ってきてくれました。「無理に留年したことを話さなくていいですよ」と。

でも私は「いや、ちゃんと言います。」と返しました。こういうのって後でわかっちゃうことだし、あんまり嘘つくのは好きじゃないんです。

私の番が近づいてくると次第に自分の心臓の音がどきどきと聞こえてきました。あの時感じた動悸が、今思いだしても人生で一番の動悸でした。
身体中が心臓になってしまったのかのような音。
にじむ汗。

話してみると心はすっとしました。
そして、元々同じクラスだった2年生の友達が遊びに来てくれたり、新しい1年生のクラスでも友達はできたりして、そんなに人間関係で悩んだりはしてないはずなんです。

でもダメでした。

結局私はその年でも学校にはあまり行けなかったんです。そして退学の道を選びました。

病気のせいにしてますが「病は気から」と言うように、おそらく私の気持ちのエンジンが壊れてしまったのだと思います。

もう、体も心も動けなかった。

それは明確にいじめがあったとか、家庭の問題があったとか、そういうわかりやすいものではないんです。何か明確なわかりやすい理由がなくても、人間は前にすすめない時があるんです。そしてその理由は無理に見つけるものではないとも私は思いました。
私は身をもってそのことを体験しましたが、きっとその体験が私が相手に対して接する時にかなり役立っていると思います。今は学校に行けない娘に対してそう思って関わることがなんとなくできているような気もしています。

私は私自身をあの時一回壊す必要があったんでしょうね。

私は幼少の頃はいわゆる典型的ないい子で、大人のいうことを素直に聞く子でした。そこからはみ出したり逸脱したかったのかもしれません。

この時期に感謝していた人物がいます。
それは、私の親と祖母です。

私の親は私が留年したり退学したりしても私を責めるような発言は一切しませんでした。

かといって、反対に腫れ物にさわるような態度も見せず、今までと変わらず接してくれていたのです。

母親は「なんとかなるでしょ」といつもの調子で私に声をかけてくれました。

父親は正直それまであまり交流がなかったのですが、退学を機に、私に心理学の本を進めたり、好きなアーティストのLIVEに連れていってくれたりしました。

祖母は私のことが大好きだったのでよくお話をしました。祖母の自宅の一階にあったお座敷(一階が小料理屋さんだったので、広いお座敷がありました。)を貸してくれて、私の部屋を作ってくれました。時々近くのお寿司屋さんに私を連れて行ってくれました。

家族みんなが変わらず接してくれたこと。

私はとても感謝していたし「ここにいていいんだ」と少しずつ思えました。


あの時、もし、責められるような態度を取られたり、がっかりしたような落ち込む態度を取られていたら、現在の私にたどり着かなかった。そう思っています。

きっと言いたいことはたくさんあったと思うのです。

私は自分自身が親になってみてあらためて、ただ見守ること、子供の力を信じることの難しさを日々感じています。

それでもその気持ちを見せなかった私の家族たちに私は感謝をしています。

この話は美談にするつもりもないのです。

たまたま私は運良く生きてきて、その陰にはたくさんの人の支えがあったこと。

きっと私が見えていないところで助けてくれた人がいるはずなんです。

年を取ると、その意味や相手の行動がよりクリアに感じられることがあります。

過去はそうやって書き換えられたりします。

そうやって人は自分の人生を生きているうちに何度も生き直しているのだと思います。

たくさんの人の心遣い、おしはかってくれたこと、たとえその時にうまく受け取れなくても、年を重ねて過去から受け取ることもあるのです。(これが利他なんだと思います)

はみ出すことは悪いことではありません。時には自分を見失うこともあります。けれどもそんな私をまっすぐ見てくれる人がいるから、はみ出すことや冒険ができるのだと思います。

今回は私の反抗期について考えを巡らせてみました。

ぜひ、皆様も企画は期間(10/7まで)がまだまだありますのでご参加下さい。

参加させて頂いてまことにありがとうございました。

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くま
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