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刻まない時計を動かすには

昨日、家の時計が、とつぜん壊れてしまった。


最初は「あれ?電池切れかな」と思い、夫に電池を交換してもらった。

しかし、待てど暮らせど、時計は全く動く気配がない。


「あぁ、もう終わりなのかな。」


時を刻めない時計というのは、どのような存在価値があるのだろう。

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時計の役割は、時を刻んで、私たちに時刻を知らせることだ。


***


1つの役割を終えたものの行く末について、私は考える。

例えば、私が今、お仕事で関わらせて頂いている70歳代から80歳代くらいの男性の方は、出生時が戦時中と言えども、幼い年齢のため、戦場に向かうこともなく戦後を迎えた。

日本が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの約19年間。この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。

彼らはその高度経済成長の立役者であったのだと思う。

家庭を犠牲にしながら、会社に貢献してきた彼らは、定年後に自身の身の振り方がわからず、家族や社会の中での存在感が途端に不透明になってしまう。

地位や名誉が通じない環境。

忖度してくれる人がいない環境。

くらげのように所在がなく、足元がおぼつかない毎日。

こういう時に過去のたった1つの役割にしがみついてしまう人がいる。


自分の未知なる可能性を信じずに昔の栄光にぶら下がって、今の自分の状況から目を反らし、攻撃的になる彼ら。


私が関わらせて頂いた方たちは、ましてや、何らかの疾病や障害を抱えた人たちでもあるので、その思いはさらに加速を増していく。


ある人はずっと、まわりのケアスタッフや利用者様や家族や昔関わった人に対して攻撃的な態度を続けていた。

会社のためにと思って、慣れないお酒を飲んで、いろいろな場所での付き合いを続けた。上司の暴言にも耐えて、精神的な負担をずっと重ねてきた。自分の時間もなかったが自分自身に我慢を強いてきた。家族のためにと思って、身を粉にして働いてきたのに、家族は私に冷たい仕打ちをしてくる。私は今トレーニングを続けているけど、ちっとも体が良くならない。周りのやつらは口ばかりで私のように励んでいる人はいない。へらへらと生きている姿を見ると、正直虫唾が走る。お宅たちはのんきに働いていてうらやましい。私は毎日が楽しくない。

私はその方の担当ではなかったが、一時期よく関わらせて頂いた。

彼は全てのものを憎んでいた。そして孤独であった。

その方のケアに入ることを、仕事と言えども、ケアスタッフは精神的負担に思う人が多く、私もいつも緊張しながら、自分の対応に嘘のないよう、口数は少ないが、頭をフル回転しながら関わっていた。
彼が発する悲痛な思いを、どのように受け止めたらいいのか、どのような返事をしたらいいのか、まだ少ない経験の中で、いつもいつも悩んで、自分なりに丁寧に距離感を図った。



私はその時、彼の中の止まった時計を見つめていたように思う。

壊れた時計は同じところを指し続けて、目の前にたたずんでいる。


この時計の針が前に進むにはどうしたらいいんだろうとずっと思っていた。

でも、今の彼は前に進むなんて事は望んでないのだ。

時計が時を止めていることにすら気づいていないかもしれない。


刻まない時計は、1日2回だけ、通常の時刻とピタリと時間が合う。

私はそのピタリと合った時間が何かのチャンスであるような気がしていた。

このピタリの時間に
この人にとって何か意味のあるものが訪れて
みんなと一緒に気づかないうちに
時を進めることが
できないだろうか

それともそんな事すらも
彼にとっては
無理矢理に生活の変化を促す
いい迷惑でしかないのか


私がこんな事を思うのは患者様や利用者様、私の愛する人たちが主である。

仕事で接する人や社会的に必要であって関わる人には、ある程度までは私なりの誠意は尽くすが、ここまでは考えない。

私はその好きでもない人の変容を促すために、自分の貴重な時間を使ったり、多大なストレスを受けたくないからだ。

なんて冷たい人間なんだろう。でも、それは今の私の器の限界でもある。


彼は施設利用を終える最後まで、自分の態度を変えなかった。

月日が経って人づてに聞いたのは、彼はまた大きな病気をして入院していたこと。もう退院の目途がたたないこと。リハビリテーションスタッフの話になって、なぜか私の名前を出して「1番よく対応してくれた」と話していたということ。


私はいつも何が正解なのかよくわからない。


何かの断片を思いだしては悩んでばかりだ。



***


新しい時計を購入しようと、夫はパソコンを開いていた。
journal standard Furnitureの時計が気に入っているようだ。


「時を刻まない時計の活用法はあるのかな」

私は夫に尋ねた。

夫は「う~ん」と10秒くらい考えて

「外のウッドデッキの壁にかけておいて、お隣さんがそれを見て時間を間違えるってのはどうかな」

私はその場面を想像する。

快晴の日曜日。
お隣の奥さんは、近所のスーパーに出かけようと、チャイルドシートに子どもたちを乗せている。

ふと隣の家を見ると
今まで庭のウッドデッキには、がじゅまるの木の鉢しか置いてなかったのだが、なぜか時計が置いてある。
時計は9時10分を示していた。

「あら、スーパーは10時からなのに、ちょっと私出てくるの早かったかしら」と、不安になり、子どもたちを再び家に戻すのであった。


何ともシュールな光景。
まったく意味が感じられない。

そして結果としては残念ながら嫌がらせのようなものになってしまう。

しかし、妙に情景は浮かんできた。

コンテンポラリーアートの様相も感じる。

私たちはおそらくそんなことは実行はしないだろう。

けれども、そのウッドデッキにかけられた時計が

不思議な事に

いつまでもいつまでも

時を止めたまま存在していて

まるで重要なものを示唆しているように

私の頭の中から離れることはなかった。

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くま
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