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わかる、わからない
先日、坂本龍一さんの企画展に出かけた記事を書いた。
その中で私は「私の何を知っているのか」という一つの問いを置いた。
これはまわりにも自分にも問いを投げかけている。
困った時は問いを置く。
最近はそのようにしている。
一度、自身の感情的なものから離れて考えたいからだ。
(できているかどうかは別にして)
アイザイア・バーリンの積極的な自由と消極的な自由。
二つの自由は簡単に言うと、何らかの強制力から自分が自由であることと、何らかの対象に向かっての自由があること。
道に迷って立ち止まった時は、一定の自由さの確保を、まず考えたいなと思っている。
そして、関心を持つことについて。
何事かに興味関心を寄せること。そして、そこから自分ごとではなくなってくること。行き着く先の共感。
「他人に対する利害関心にブレーキをかけて、積極的に無関心であれ」
以前読んだ『公正を乗りこなす』という本で、目指したい姿として作者が語っていることばだ。
私は、このことばは、自分の仕事において、非常に大事な考えだと思っている。
この文脈の中の「無関心」は寛容さに繋がっている。
寛容さについて本から引用する。
寛容とは思いやりや配慮などではなく、自身の利害関心に適度にブレーキをかけて、他者の利害関心の追求に首を突っ込んで、それを自分ごと化しないように心がける。それは自身の利害関心に基づいた想像力を羽ばたかせてしまい、あらゆるものを敵か味方かに二分してしまうような習慣がある。
(この本は友人にあげてしまったので、正しく転記されていない可能性が高いことをお伝えする)
私の苦しみは私のものである。
悲しみも喜びも然り。
それをわかったと言われることに、私はさらに悲しみを覚えることもある。
そうすればよかったと思っていたよと言われれば、あなたはいつから私の師にでもなったのかと、抗いの念が芽生える。
心配ですと言われれば、心配ご無用ですと差し出された手を繋がないこともあるし。
とても素敵です、感動的ですと言われれば、私や私のまわりの出来事を勝手にあなたの中で感動の物語として、消費しないでほしいと、心より願ったりする。
気づくと今朝、フォロワーが600人になっていた。
私はひねくれ者なのかもしれない。
これを書くことで人が離れていくことをもしかしたら望んでいるかもしれない。
くまさんはいい人ではありません。
繰り返すが、noteに書かれているくまさんは私の中の一部である。一部ではあるが、なるべく自分の思ったことをそのまま書こうと努力している。
相手が何に重きを置いているのかはそれこそ自由である。あなたはあなたの自由がある。
けれども先ほどのことば。
「他人に対する利害関心にブレーキをかけて、積極的に無関心であれ」
私は仕事や家庭やnoteにおいても、自分自身がそれを忘れないようにしたいと思う。
相手に対してわかった風にならないようにしたい。
会話においては「わかる」と多用しがちな人間が何を言うか、と言われそうでもあるが。
わからなくとも、そばにいることはできる。
それは、経験や体験から可能であると、私の手の中に手応えとして確かに残っている感触なのだ。
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