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たとえばそれはおにぎりのような

「あなたは、どんなエッセイが読みたいですか?」

と問われたとして。

そんなことはこの先の人生で誰かに問われることはないかもしれないが、そんなことを言ったら話が終わってしまうので、問われた前提で話を進めたい。(ゆるしてくだされ)

私は誰にでもわかりやすく共感を得るような感動物語や、奇跡の大逆転劇、誰もがうらやむような憧れの恵まれた生活、勧善懲悪のスカッとするような話などもおもしろいとは思うが、実のところさほど興味がないのかもしれない。

私が読みたいものは、たとえて言うなら「おにぎり」のような話なのだと思う。

これだけだとただのおにぎり好きの人みたいになってしまっているので、うまく言語化できる自信はないが、ここからなんとか私なりに説明を試みたい。

私たちは誰もがびっくりするようなエピソードの連続で人生を生きているわけではないと思っている。

むしろ人生を構成するのは、取るに足らないことの方が多い。それは平凡で当たり前みたいなことで、他の人から見ても面白みに欠けてしまう。

でも、そんなささやかな個人的なできごと。トリュフやフォアグラやキャビアでもなく、おにぎり。そこらへんにあるようなめずらしくもないおにぎりが、その人にとっては意味を為すことだったりする。

あるいは究極的には意味なんか為さなくてもいいのかもしれない。

状況も性別も年齢も考え方も違う私たちが、その話を読んで「あぁ、私もこのような気持ちを抱いたことがある」「この景色を私も見たかもしれない」「こういう瞬間が昔あったなぁ」と五感に訴えかけるように感じられ、なおかつそれは簡単にことばにできるような気持ちでもなく、けれどもどこかノスタルジーを感じるような、そういう「なんてことはない話」を私はたぶん読みたいのである。

おにぎりに希少性はない。

けれども、その人にとっては、それはとても大切なおにぎりであって、おにぎりでなければ成り立たない話であったのかもしれない。

そういう話を読みたい。
そして、私はそのような話を自分でも描いてみたいと思っているという話を友人にした。

ここで話はすっ飛ぶが「とまる、はずす、きえる ケアとトラウマと時間について」という本を、つい先程まで読んでいた。

その中で「時間の濃淡」の話題が出ていた。
少し転記する。

 子どもが生まれる、赤ちゃんが誕生するってその場面の濃度もあった。これは生命の濃度なんだと思いますよ。

 同時にね、そういう五分が得意な医療従事者もいるし、それが苦手な人もいる。間延びしている時間が苦手な人というのもいるんですよね。慢性疾患より、急性疾患対応が得意な人や、緊急対応の方が楽だという人もいます。
 ただ、必ずしも、運命が分かれるような、濃度の高い五分だけが大切だとも限らない。「律速段階」という言葉があるんです。自律の「律」に速度の「速」です。化学反応全体にかかる時間を決める段階の話ですが、変化がとても速く起きているときじゃなくて、ダラダラと変化が起きているときのほうが全体の時間を決めるんですよ。

〜中略〜

 濃淡でいうと、濃度の高い部分のほうがみんな大事と思いがちだけど、実は淡のほうが全体としては大事なのかもしれない、という話かな、無理やり単純化すると。非日常も大事なんだけど、実はダラダラしている日常のほうを大切にしたほうがいいというふうな言い方もできるし。

「とまる、はずす、きえる」宮地尚子、村上靖彦著

濃い人生を送って、派手に散るのもかっこいいと思う。

でも私は、私自身がそんな風には生きられないことをよく知っている。

淡くて、すぐ忘れてしまうくらいの弱さを持った、でも、確かにあの時、心の中でシャッターを切りたくなるような瞬間を捉えた、ひかりのような時間を、私は感じたいのだと思う。


ちなみに余談だが、私は私の人生の中で、驚くべきおいしさを感じたおにぎりに出会ったことがある。

それは私にはとっては一生忘れられないおにぎりである。

あのおにぎりはあの瞬間、あの時でしか味わえない格別なものであった。

けれどもある人から見たら、それはなんてことはない、特別でもなんでもないおにぎりなのだ。


それでいいと思っている。


そしてそれは理解されなくとも、共感されなくともいい。


そんなおにぎり的なエッセイを私はどこかで求めているのかもしれない。

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くま
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