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ふつふつしたコーヒーみたいな日曜の断片
コーヒーみたいにちょっと煮詰まってきたので
今、取り留めなく浮かんだことをばばーっと書く。
①私たちは死ぬことはやっぱり語っていない?
SNS医療のカタチTV2021を昨日から断片的にリアルタイムで見ている。私はフジロックも気になるが、やっぱりこっちなのである。
死の話は死んだあとはできない。死ぬことは病院では語れない。病院に来る前に語る機会が作れるといい。(大塚先生)
死ぬことについてかたっていたけど結局生きていることについて語っている。そこに向かって生きている事を書いている。(ヤンデル先生)
死ぬことは私も経験したことがないからわからない(小鴨住職)
神が見てくれなかった時に、信じるものと向き合っていきたい。土台つくりをしている。(壇蜜さん)
死については誰にもわからない。
これはもう決定的なものなのだと思う。
死について私たちは語る時、そこに至る過程=どう生きていきたいかについての話になる。そして「いい死」と言うのは本人がというよりも、語るのは家族であったり医療職であったり残された人たちであることが多いという原点に戻りそのことについてあらためて考えてみる。
人が求めたい、つかまっていたい、そこにさしだされるつかみ棒(浅生鴨さん)
この誰かのつかみ棒になれるのかという問題も気になるし、私自身のつかみ棒は誰なのか、信頼できるしっかりとした「棒」がいくつ持てるのかということも気になる。
そして、人は死しても、誰かのつかみ棒になれることもあるのだと思っている。(かすみさんの記事を読んでなおさら実感している)
②ナラティブをどうおろしていくか、落とし込んでいくか
私は以前、一人一人の物語を(守秘義務があるので)個人情報をほどほどに操作しながら書いていた。
今はほとんど書いていない。(操作してもやはり個人情報的にふれる気が今はしているから)(書いていない理由はそれだけではない。私の表現力。幼い攻撃性の問題について反省しているから)
ひとりひとりが生きてきた道のりがあって、物語はただそこにある。
その人にとってはただそこにある物語が、時にはどこかの誰かの心をふわっと包んだり、なでたり、勇気づけたりすることがある。
実際、その物語の近くにいる私は、たくさんの人たちの想いに触れて、自分自身が生きる原動力とさせて頂いているような気がする。
そして病や心身の不調を持つ人たちは、人より苦悩が深い分、そこから振り戻していくパワーやベクトルの向け方は、目を見張るような展望や世界観を見せることがある。
86歳 大腿骨転子部骨折 介護度2 息子と二人暮らし 自宅で転倒して病院でγネイル術施行し、リハ中。
という情報も大事だし
酪農家のおばあちゃん。牛が大好きで、12頭の牛に名前をつけてかわいがっていた。今までも牛に踏まれたり手をひっぱられたりしてけがはしていたものの、入院には至らず。しかし、今回は牛に足先を踏まれて転倒し、病院へ入院した。今は大好きなようかんが病院で食べられなくて落ち込んでいる。そしていつまで経っても結婚しない息子の事を心配して、リハ職員に愚痴るのが今のストレス発散方法。
という情報も大事だと思う。
(ここに書いたおばあちゃんは、今思いついた私の架空のおばあちゃんで実際には存在しておりません。)
エビデンスを確立するために必要な情報は前者だし、おばあちゃんの物語にふれて、生を感じたり、弱さを共感したり、心をなぞらえたり、ケアの心地よさや、惹かれて長く残るもの、鋭く心を打ち抜くものは後者であると思う。
物語に癒されるというのはそういう事なんだなと思う。
OTにはそのような使命があるのだと勝手に思っている。
・・・間違えた。
OTではなく、私としては
医療福祉の伝え方(情報発信)はそこなのかなと思っている。
エビデンスとナラティブの両輪。
私が見てきた美しい人たち。
ひたむきに生きてきた人たち。
やさしくかみ砕いた物語を受け取りやすく渡すことが、今までの方法じゃないところでできないかと、考え続けている。
(それで試しに書いたのが365分のある1日だったりする)
③現代人は身体接触が少ない?
壇蜜さんがちょっとお話していたので、私も共感しながら聞いていたのですが
ふれる
さわる
なでる
というコミュニケーションって年を取ると少なくなりますよね。
私の職業は割とよく体に触れます。
高齢者はふれられるとどこか嬉しそうな感じもあるんですね。
ただなんとなく手を握ったり
肩に手をかけたり
あるいはハグしたり
自分に置き換えてもこどもの頃より少なくなってる。
「手当て」ということばもありますが、ふれることって大事だなと最近感じています。
noteは文章だけどふれられてる感じがする時がある。
不思議不思議。
なんかパソコンから出てるのかしら。
やっぱり不思議不思議、です。
④これから久しぶりにケンタッキーフライドチキンを買ってこようと思っている。
なぜなら、このケンタッキーの骨で息子の夏休みの宿題を終わらせたいと考えているからだ。
うまくできたら写真に撮ってみたいと思います。
どうなることやら。
では、さよ~なら~。
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