物語をかくことについて(Danceのあとがき含む)
どうもくまです。
わたくしは先日
「Dance」というお話を
創作大賞に投稿させて頂きました。
長い長い話をお読み頂いた方。
読んでいなくとも気にかけてくださった方。
まことにありがとうございました。
深くお礼申し上げます。
私はこのnoteで、自分に見えるように、熱の塊のようなものをただひたすら空に打ちあげるように記事を書いているという内容の文章を、むかしむかしそのむかしに書いたような記憶があります。(↑ありましたのでリンクしてみました)
私の記事の一部は、おそらくどこかの誰かのことを思いながら書いているものもあります。
けれども、それだって結局、私はつきつめればその人のためになんか書いていないのです。冷たいようですが、それも私のエゴなんだとどこかで自覚したい。なんとなく。
それでもそれでも!
またぐるっと話が戻ってきちゃいますが。
会話もそうですが、やはり相手ありきのものなのかなとも思うのです。
私の目の前に人がいれば、その人が好きな話題を振ってみたり、過去の特徴を深掘りしてみたり、色々聞いてみたりしたくなってしまいます。
noteもそうです。
意識してなくても無意識に、相手の......フォロワーさんのことを思ったりはしてると思うのですよ。
でもね、全部そればっかりだと、心のどこかが削れてくるんです。
「物語を書くこと」というのは
そういったものと違うベクトルで書いているような気はします。
なんというか
くま100%
みたいな。
誰にも遠慮せず、忖度せず、好きなもの、好きな世界観、好きなセリフ、好きなストーリーをフィクションだから書けること。
それが楽しいんだろうなって今回書き終わってみて、思いました。
そして、私自身が物語を描くことで自然と癒されているのだなと、そんなことも自覚しました。
物語を作るプロでもなんでもない私ですが、昔から妄想する時間だけはけっこうありました。特に幼少の頃は病院通いが多く、点滴治療の時間は暇なのです。今だったら職業柄、運転する時間が長いので、その間にぐるぐると頭の中で考えています。
頭の中の妄想を「ことば」に置き換えていくことは、なかなかに難しい作業です。その過程は、とてもつらいなと思います。そう、この物語の星一くんが言うように「ことばはのろまで、不自由」だなって、私も思うのです。でも、同時に楽しいなとも思います。
楽しかったです。はい。
この記事は、私の好きなnoterさんに「このお話を書いてみてどうですか?」と問われたこともあって、今そのお返事として書いています。これを読んでくださるといいなぁ。
さてさて。
ここからは「Dance」の話しか書きません。
あとがきですから。遠慮なく書かせてもらいます。
あまり興味がない方はすっ飛ばしてもらっていい記事です。
と、同時におそらく全話読んだ方向けの内容になっているので、ご承知おきください。
まずこのお話は、以前書いた「Drops」というお話の過去のお話になっています。
なので、もしDanceが完走できた方は、Dropsを読んでくださると、楽しいかなと思います。
はなし的には繋がっているはずです。(たぶん)
Dropsの主人公の一人は、Danceに出てきた星一くんのお姉ちゃん、雫さんです。そして、Dropsにも実は2場面くらいひょっこりと、星一くんが出ています。
過去に読んでくださった方も、Danceを経てまた読んでみると何か発見があるかもしれません。
Danceの話に戻ります。
この作品は、実は......昨年の7月が最初の0話の投稿なのですが、その後、ちまちまちまちま書き続けていて、今回やっと完成に至りました。
一年かかった!
びっくりしましたね。完成まで長すぎて。
夏のお話を夏に書いて、そして一年後の夏に完成したというわけです。
書こう!と思ったきっかけは、私がDropsを書いたあとに「実は、赤井弟のスピンオフ話が浮かんでいる」と書いたところ「それを読んでみたい」と表明してくださった仲の良いnoterさんがいらっしゃいまして、その方が背中を押してくださいました。
その方はDanceの最終話まで読んでくださったようなので、大変満足しています。(ありがとう、感謝!)
もう一つは、やはりぷんさんの存在です。
ぷんさんが、いつぞやの記事で「お話の挿し絵を描いてみたい」と書かれていたのを目にして
「え!頼んでしまおう!!」
と図々しくも、頼んでしまいました。
あまり、こういう時は躊躇しません。
好きな人にはつめよるタイプです。
(今までつめよられた人たちはすみません)
ぷんさんは、いまや、言わずと知れたせやま南天さんの「クリームイエローの海と春キャベツのある家」の装画を手がけていたりします。
私が挿し絵をぷんさんに依頼したのは、この本の装画のお話より、前なのです。
だから、この本の装画のお話を聞いた時はすごくすごく嬉しかったです。
私の好きな推しの方の絵がたくさんの方に見て頂ける機会があるなら、これほど喜ばしいことはありません。
今回、創作大賞に応募したのも、私がタイミングよく書けたというのも一つありますが、もう一つは創作大賞2024のハッシュタグをつけておけば、私のフォロワーさん以外の方にも、もしかしてぷんさんの絵を目にとめて頂けるのでは!?という気持ちがありました。
ぷんさんには、私がお話を書いて送って、そして彼女に読んで頂いて、挿し絵を描いてもらって、私に送ってもらうという手順で取り組んでもらっていました。
ここからは私の役得話で申し訳ないのですが、このお話の最初の読者がぷんさんなのです。もう、それだけで贅沢ですよね。
ぷんさんはイラストだけでなく、きちんと文章で、ことばで、毎回ていねいに感想を伝えてくださいました。
実はこれが、すごく励みになりました。
さらにぷんさんの感想からヒントを頂いたり、自分の思いを深められたり、絵からまた湧き立つアイディアもあったりで
私は完全に共作者だと思っています。
最後の2話は実は今回、私が書き終えるのがぎりぎりすぎたことと(本当にすまなかったなと思っています)ぷんさんが体調不良(発熱)になりまして、挿し絵を入れさせてもらうことが叶いませんでした。
創作大賞の記事は、たぶんもういじくれないのでしょうから、もしぷんさんが残りの2話の挿し絵を完成してくださったとしたら、きちんと別記事を作って皆さんにお知らせしたいと思います。
そして、こちらの創作大賞応募用とは別の、元々のDanceマガジンに収納しようと思っているので、皆様も挿し絵を見て頂けたら幸いです。
よろしくお願いします。
以前書いたDropsというお話は「お互いに見えているものが違うこと」を書きたかったんだろうなと思います。青野くんという主人公がある障害を抱えており、赤井さんと実際に物理的に見ている世界が違うこともあったりしますが、それでなくても、たとえ障害がなくとも見ているものって、本当に一人一人が違うんですよね。それでも、そんな私たちでも、共に生きていけることはできるのではないかという可能性を、赤井さんと青野くんが指し示してくれています。
今回のDanceは「なくしたものとどう生きていくのか」ということが物語の通奏低音として流れているかもしれません。
自分が損なわれていくこと。
欠けてしまうこと。
失って取り戻せないこと。
出てくるキャラクターたちは、みんな何かを失っています。
それでも、そんな弱さを礎にして、繋がって、共に生きることはできると私は思っているし、そんな世界であることを望んでいます。
その願いは最終話の雫さんが思ったセリフに集約されています。
そして、なくしたと思っているものは、実はずっと変わらず自分の中にあるということ。
あの日のあの瞬間のできごとが、自分を生かし続けるものであることを、私は自分自身が信じたくて、書いています。だから書きながら自分自身が「癒されている」のだろうなと思います。
結月の病気は、私が日々生業としているお仕事の中で、同じような病気の方とお会いしたことがあるので、そこからイメージを膨らまして書かせてもらいました。
実際、遠位型ミオパチーは難病でもあり、当事者も少なく、治療法も確立されていません。治療に対しての研究などは引き続き行われていると思いますので、早く治療の手立てとなるようなものが見つかるといいなと願っています。
バレエのシーンは、私の娘が、長くバレエ教室に通っていたことが、影響していると思います。
あとは、私の一番好きなミュージシャン。山崎まさよしさんの映画2作品(「月とキャベツ」「8月のクリスマス」)が、かなり今回のお話のタネの一つになっています。見たことがある方は「あ〜」と思うかもしれません。
あとは、danceを見ること。
私は誰かが踊っているのを見るのが、単純に好きなのです。
特に、インスタでフォローさせてもらっている若い2人のダンサーがここ数年のお気に入りでして。
1人は飯島望未さん。
もう1人は川崎晃さん。
あぁ、素敵!!
すみません。ついついとりみだしてしまいました。
あと、Danceのお話の中で黒木雪乃さんという先生が出てきますが、この方のエピソード「いなくなってしまったパートナーと踊っている話」についてはダンサー・振付家の砂連尾理さんのお話に、かなり影響を受けています。
砂連尾さんは重度の障害を抱えている方とdanceを踊るのです。
そして砂連尾さんはある1人のパートナー。デュオを組んでいたお婆さんが亡くなってしまってからも、その方と踊り続けるようにdanceを踊っているというお話をある本で読みました。とてもいいお話だなと思って、ずっと頭の片隅にあったのが、今回の雪乃先生のエピソードに繋がりました。
Danceの最終話、結末については、書き始めた頃から決めて書いていました。ゴールは決まっていましたから、そこに辿り着くまでを、なんとかかんとか捻り出しての作業になりました。あとは、Dropsのお話との整合性なんかを意識してはいます。
Danceは一回読み終わってから、また読んでみると、結月がなんでこんなに不安がっているのかな、独特の透明さを持っているのかな、潤はなんでこんな2人にいじわるなことを言うのかしら、というのが、またわかりやすいかもしれません。
今回のDanceは、個人的に潤くんにとても感謝しているのです。彼は思いつきで出した人ですが、彼がいないと物語はまわっていきませんでした。星一くんも結月ちゃんも、まあ、のんびりしているというか、まっすぐした子たちなので、2人だけだとこうならなかったと思います。
彼が出てきてからは、彼が勝手に歩き出して、かなりおもしろいやつになっていったので「こういうことってあるんだなー」と思いました。
登場人物の名前は、Dropsの暗黙のルールにあった「色がついた名前」を引き継いでいます。
赤井姉弟はイメージカラーは赤ですから、この2人は光が強いイメージなんですよね。
たとえて言うなら2人とも「犬」みたいな人だなって思っています(笑)
姉ちゃんは感情だだもれの子犬。弟は頼れるけども、ちょっと考えるのは苦手な大型犬みたいな(笑)
星一くんはことばにすることの難しさを知っていて、苦手だなぁと思っているのでしょうね。だから「写真」という一つの表現を使って、困難を乗り越えていきます。
潤くんはことばが大切なことを知っています。だから、そんな星一くんに対して「あんた簡単にアートに逃げなさんなよ」「もっと深く考えなよ」「大事な人にはきちんとことばにして伝えるんだよ」という忠告をしているのです。
星一くんは、そんな潤くんの想いもあってか、物語が進むにつれて、拙いながらもなんとかことばにしようと努力する場面も見られます。けれども、ことばにならないこともたくさんあって、そういう時はやはり写真の力をかりるわけです。
この行き来が大事なのかなと思っています。
絵も写真も音楽も、インスピレーションでなんとなく生み出されたものもいいのですが、その作品が生み出された背景や理由を説明すること、ことばにすること、作品の真意を作り出した当事者がまた自身の作品から影響を受けて、思考を深くして、自分や世界をみつけること。
私がアートに対してイメージすることなども、たぶん2人のやり取りの中で、あらわされていると思っています。
「恋愛小説部門」の割に...恋愛が...??と思いの方は、いるかもしれませんが、最終話の一年後の星一と結月は、たぶん深い仲になっているのかもしれませんなぁ。(ひとごと)
潤くんの金髪化は、私の中では「せいちゃんに振られた」ということになっています。
潤くんのせいちゃんへの想いは、複雑ではあるのですが、取り留めもなくなってきたので、余韻を残しつつ、ここまでにします。
皆様、ありがとうございました。
また創作は、書けそうな時は下手くそながらも書いてみます。
その際はお付き合いできる方だけでかまいませんので、またお付き合いください。
では。
※追記
コッシーさんが作品を紹介してくださいました。ありがとう!
(ジュディマリは今は正式なMVがないのね、残念)
もつさんも作品を紹介してくださいました。感謝です!
ついでに...7話のジョーカーのダンスはこれです。知らない方は、おそらく想像以上にトリッキーなのでは。
全く関係ないけど、私の好きな岸政彦先生のジョーカーはこれ。歳上の方に大変申し訳ないのですが、かわいすぎる。