私のあこがれの人へ【贈りnote】
私のじいちゃんのお葬式は、近所の公会堂で行われた。
それは、私が小学5年の夏だった。
当時は民間の葬祭業者が運営する斎場も少なかったのだと思う。私の実家から100mも離れていない公会堂には、ぎっしりと人がひしめきあって、来る人が途絶えることはなかった。訪れた弔問客の中には市長さんなどのお偉いさんの顔も見えていた。じいちゃんのお友達もたくさん来た。私が知っている顔も見かけたが、知らない人もたくさんいた。彼の生きてきた世界を....彼の泳いできたこの広い海を....私は彼がいなくなってあらためて葬儀中に肌身にひしひしと感じることとなった。
葬儀は近所のおばちゃんやおじちゃんが私たち家族を手伝ってくれた。とてもあたたかで、おだやかで、式は粛々と執り行われた。まるでじいちゃんの人柄があらわれているかのようなお葬式だった。近所の友人のおじいちゃんが声を振るわせながら、辿々しく歌を捧げてくれた。そして、横にいるばあちゃんはふと気づくと、時には静かに、時にははげしく、時には笑いながら、涙を浮かべていたことを、私は今でも鮮明に思い出せる。
じいちゃんが亡くなったあとでさえも。
じいちゃんは私に存在を示し続けた人だった。
近所の人たちは私に会うたびに「瀬田さん(祖父母の仮名とする)のところのお孫さんだよね」と話しかけてくる。そして、祖父がどんなにやさしくて、どんなに色々な人を助けてきて、その死がどんなに惜しいことであったのか。
亡くなってから30年経った今でもその話をしてくる人もいるくらいだ。
胃がんで若くして70代で亡くなった祖父は、私の憧れの人だ。
戦争から帰ってきて空襲で焼け野原となった東京をあとにして、彼は私たちが今も住んでいる街へ、自分の身一つでやってきた。
地元民でもないじいちゃんの、何がそんなに周りから慕われているかというと、彼は調理師として、経営者として、自分の店を構えながら、同時に地元の地域活動に熱心な人だった。
特に地元の祭礼に関しては、彼が残した功績は大きいようだ。
彼は平成4年に中国に渡り、地元のお神輿を披露するイベントに貢献した(この時のビデオも確か実家に残っていると思う)
上記の文章に記されている「祭りばやし」は、私の実家の町内に残されている無形文化財で、私は小学生の時に祖父のすすめもあり、このおはやしを習った。
私は「終わった後にアイスがもらえるから」という動機だけで、なんとかお稽古に通い続けた。
というのも、習っていた先生の出立ちは、サングラスをかけて、ちりちり頭で、見た目はまるでヤクザのような口数の少ない人だったからだ。
「え....なんか、こわい!この人」
とびくびくしながら、私は教わっていた。
私をお稽古場である公会堂に送った家族はお稽古中は帰ってしまうので、建物の中には私と彼しかいない。
気まずい。
間違えないようにしなきゃ。
よくわからない。
そもそも教本に書いてあることがよくわからない。
黒板に彼が教本に書いてあることばを書き出す。
「てんつくてんてん、てけてんてん」
謎のワードが黒板に並ぶ。
「最初は鎌倉(おかめ)からだな」
と彼は言う。
(これを何も見ずに書ける私に今少しだけ驚いた)
鎌倉は1番簡単で、叩く数も少ない。他にも4曲ある。
「キツネ」「笑い」「怒り」「おかめ」「ひょっとこ」それぞれに踊りがあり、それぞれにおはやしの演奏も決まっている。(曲名は「囃子(はやし)」「昇殿(しょうでん)」「神田丸(かんだまる)」「鎌倉(かまくら)」「四丁目(しちょうめ)」)
楽器構成は大太鼓・小太鼓・笛・鉦で、私は最初に小太鼓を習っているところだった。
最初は太鼓の音をうまく響かせるところから。
「太鼓の真ん中をきれいにたたかないと、いい音が出ないから」
彼は私に指導する。
「もう少しバチをこうもって」
「そうそう、そんな感じ」
私は最初は寡黙な彼にかなり緊張しながら教わっていたが、次第に彼が心優しい人だと言うことがわかってきたので、お稽古は楽しい時間となっていった。
このお稽古の時間はその後、他の青年会の大人たちも参加するようになり、そして私の妹たちも習うようになったので、次第に賑やかさを見せるようになった。(青年会の人はお稽古にかこつけて、終わった後にみんなでビールを飲むのが主目的になっていた人も多かったと思う)
祖父が私を習わせたのはおそらく伝統継承のためだ。
このように人を介して、見よう見まねで受け継がれていくものは、教える人、教わる人がいないと簡単に途絶えてしまう。
私をきっかけにして、妹だけでなくおはやしを習う子も近所に少しずつ増えていった。
そして5曲を一通り覚えた夏に、私はおはやしデビューすることとなった。
祭礼で練り出される山車に備え付けられた太鼓台に半被を着た私が立った時。そして大人たちに混じって太鼓をたたいた時。
裃をまとった祖父がとても嬉しそうな笑顔をしていたことを覚えている。普段から下がりがちな目尻はさらに下がって、そして祖父の表情はどこか誇らしげであった。
私は生まれた街にずっと住み続けている。
祭礼はコロナでしばらく数年休止していたが、今年から復活し、また賑わいを見せるようになった。
私は自分の子供を連れて、お祭りに参加できる時は参加するようにしている。
祖父が守りたかった、そして人生を費やした、この行事を、私は大切にしたいと思っている。
じいちゃんへ
いつもたぶん見守ってくれていると思っています。
ありがとう。
ばあちゃんはあなたがいなくなってから、夜、晩酌をしながら、月あかりのもと、ベランダでよく泣いていました。
あなたのことが本当に好きだったんだなぁって、私は思ったよ。
ばあちゃんもそっちにいったと思うんだけども、「うっせぇ、ばあさんだな」と、またにこやかにこぼしながら、仲良くやっていてほしいなと思います。
太鼓をたたく時、じいちゃんのことを思い出します。
じいちゃんは、お祭りが終わった日の晩にあちらへ旅立ちましたね。
みんな「瀬田さんは、お祭りが終わるのを待っていたんだね」って口にしていました。
私もそうだったんだろうなって思っています。
じいちゃんが手作りしてくれた玄関の前のベンチで、友達とくつろいで、はしゃぎながら遊んでいたことを思い出します。
じいちゃんは「場」の人だと思っています。
みんなが喜ぶ場
みんなが笑顔になる場
みんながつながる場
様々な場を作り続けてきたその背中に、私は少しでもふれたいし、追いつきたいと思っています。
でも、まだまだ遠い道のりだし、もしかして辿り着けないかな、なんて思ったりしてますが。
誰かにじいちゃんに似てるって言われた時。
やはりどこかうれしい気持ちがあって。
どこが似てるんだろうと謎に思いながらも。
また自分なりに今を生きていたいと願っています。
今回は私の大事な友達が「誰かひとりにnoteを贈ってください」と素敵な企画を立ち上げてくれたので、私はじいちゃんに贈りたいと思いました。
あなたの作った茶碗蒸しは絶品でした。
おはやしは、あと笛だけがまだうまく吹けないから、折を見て青年会の人に教えてもらうね。
私の街にある港の石碑にあなたの名前が刻まれています。
私はたまにそこにふらっと訪れます。
そして名前を眺めてるよ。
潮のかおりと
海の風と
松の木と
いつもの風景が
私をまた生き返らせます。
この企画に参加させてもらいました。
おだんごさんさんきゅー!
いい企画だなと思います。
まだみなさんの記事は全部読んでいないのですが、読むときっと、寒さでかじかんだ手足に血が通うような、あたたかな熱を感じると思います。
期日もまだありますので、誰かに贈りたい気持ちがある方は参加してみてください。
それではまた。
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