やめるかも天理教修養科1000期生の日記27
初めて車で本部の朝つとめへ行った。詰所のおじいちゃん先生2人と住込みの方と一緒。いつも何をするにも1人行動だったから嬉しい。今日は人が沢山で、南礼拝場に行ったけどギリ入れた。帰りにみんなで歩いている時、今更だけどおじいちゃん先生が2人とも白髪である事に気がついた。今更だけど。
というのも、、、
noteでは2人いる先生方を、おじいちゃん先生と白髪のおじいちゃん先生と使い分けていた。でもよく見たら2人とも白髪だった!改めて見たつもりで見えてないなぁと反省。
詰所に戻ってから朝食食べて、少しゆっくりして掃除して、今日も野球のワールドシリーズ観戦。男たちがそれぞれの場所でそれぞれのテレビを観ている。なぜか一緒ではない。今回も山本由伸と大谷翔平のいるドジャースが勝った!
昼食食べて少し時間があって暇なので、十全の守護を少し暗記した。初めの文の「親神様は〜」と終わりの文の「私たちの身体は〜」と10の「〜のみこと」の名前だけ。細かいのはめんどくさいからまた時間あって気が向いたときやろうと思う。
夕つとめはいろいろあって1人で行くことに。途中に雨が降ってきたけど気合いで本部まで走った。なぜか帰りは雨止んでいた。
突然だけど、、、人間関係で悩んでる。頭を抱えてしまう。これから書くことは仕事をしていた頃の事。
私は介護や障害者支援の仕事を経験した事がある。介護では認知症のご老人が自分の間違った事を認められずに感情が浮き沈みする姿や認知症のご老人同士が自分の事はさておき相手が少し間違った事するとその人を認知症だと蔑んでしまう姿などを見てきた。また、障害者支援では例えば障害者の方が働く手伝いをする時、障害者の方が自身のプライド?人間性?を傷つけられたと思わないような表現というか伝え方を個人個人に合わせた形でしなければならない時がある。同時にできない事の尻拭いをしながら。このように人の心に寄り添う努力をしながらサポートするって、なかなか状況が改善されるものでも無いから気が滅入るし、私の時間を無限に取られてしまうと思う。なんで私がしなければならないのかとも思う。
私はこのような人間関係で悩んできたけれど、そもそも私の考え方の中にも癖がある。例えば「〇〇な環境下で相手が〇〇した。だから〇〇せざるを得なかった。」というようなもの。つまり、自分がどうしたいかが先に無く、相手や状況に合わせて最善手を探して動くのだ。親にはよく「言い訳だよ」とか「相手は関係無いよ」と言われる。この、先に相手に合わせてしまう考え方が良いのか、それとも先に自分がどうしたいのか考えるのが良いのか、それともどちらも良いと言えないのかよくわからない。
天理教的には、人間では無くて親神様に喜んで頂けるように心を使うのが良しとされると思う。陽気暮らしを楽しみたい親神様に合わせれば良いという事なんだよね。
物事を難しく考えてしまうのって良く無いな。頭の良い人なら処理出来るのかも知れないけど、私には難しいと思う。見えてないもの多すぎだし(白髪とか)。
明日も朝早いので早く寝ます。