元修養科生のさえない日記14(母とコミュ力)

なんか、もう修養科がはるか前の出来事のように思えるほど日常生活に追われている。といっても仕事はしていないので時間はあるんだけど。今は就活で一気に面接受けた結果待ちをしている状態。で、希望職種の求人が出ていたら都度応募している。こんなだけど教人講習行けるかな?って感じ。早くいい結果出てほしい。ひとつ補欠合格みたいな感じになっているのがあるんだけど、まあ無いことととして就活にはげんでいる。

実家暮らしも慣れてきた。人と共同生活しているから「これから出かけるね」とか「週末の予定は…」みたいに家族に話すことが求められることもあると思うんだけど、私の感覚と母の感覚はちょっと違うみたい。母は、突然席を立ち「歯を磨きに行くね」と言い、急いで走りながら「トイレ行くね」って言い、喉が乾いたようでお湯を沸かしながら「お茶飲むね」って言ってくる。最後のお茶は「お茶飲む?」って意味も含んで話しかけてきたんだろうけど、私の感覚だと「えっ?」って思うくらい母は何でもかんでも報告してくる。そんな感覚を持つ母だから、私が普段伝えていることでは物足りないようで「何かするときには言ってね」と何度も言ってくる。困る。お互い感覚が違うねって具体例出しながら説明しているんだけど…ね。

今は時間がたくさんあるから本を読むことが容易にできる。これまでは専門的な本を気合い入れて読むことが多かったのだけど、もう気軽に読める本をサーっと読んでしまうことが増えた。最近は『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』って本を読んだ。案の定母は「何読んでいるの?」って話しかけてくるので本の表紙を見せたら「むかつく(笑)」って言ってたな。コミュニケーションでお互いの前提知識などの違いから、同じ言葉でもお互いにイメージするものが異なる。だから、自身の中で言葉を間違いなく正確な表現で話すみたいな発想ではなく、お互いに共通のイメージを持てるようなコミュニケーションをしたらいいのでは?みたいな本だったと思う。

母は教会の娘でお互いに共通の体験をしてきた人と密に関わってきた人だからなのか「行った?」とか「どうするの?」とか文脈関係なく話しても、その足りない言葉を相手が脳内で想像して埋めてくれるので特にコミュニケーションに問題は起きてこなかったのではないかと思うことがある。あと、あえて主語を使わない話し方は密な人間関係ではっきりした物言いにならないようにする手段として使われることもあると思う。もちろん、あくまで私の想像の話なのだけど。
で、何が言いたいのかというと、そんなコミュニケーションがああだこうだ考えることも必要だけど、まあ日々を楽しめればいいよねって考えの着地ができるようになれたってこと。大学で論理的考えをつなげていくことをトレーニングしたのだけど、私の能力では途中で「まあいっか」って思う方が現実的にはいいと思って。母は仕事で論理的な思考が必要だと思った時があったようで「子どもでもわかる論理的思考…」みたいな本を読んでいたことがあったんだけど、そんなことしなくてもコミュニケーション能力が必要とされる仕事でずっと成績いいんですよね。人柄とか人間性とかで表現されるものが豊富にあるんでしょうね。

久しぶりに書いたら長くなりすぎた。終わります。教人講習行けたらまた毎日書こう。

いいなと思ったら応援しよう!