築山殿と信康の事件ーどうする家康
大河ドラマでも話題になっている築山殿(瀬名姫)について、
ドラマは、当然のことながら、脚色されているのはご存じだと思います。
では、実際はどうだったのか、ちょっと調べてみました。
よろしければ、最後までお付き合いください。
1.築山殿(瀬名姫)と家康の出会いと結婚生活
2.桶狭間の戦いと三河国独立、織田家との関係
3.信康の結婚と、五徳と築山殿の関係
4.信康事件の発端
5.事件の顛末とその後
1.築山殿(瀬名姫)と家康の出会いと結婚生活
築山殿(瀬名姫)は、今川家の家臣「関口親永」と今川義元の妹の間に生まれました。
生年ははっきりしませんが、通説では、1539年〜40年(天文8〜9年)と言われています。
つまり築山殿は、今川義元の姪にあたります。
今川家のルーツは、清和源氏の流れを汲む足利家です。
その一門の吉良家から分家した、由緒ある家柄です。
今川家は、駿河国と遠江国の守護大名で、義元の代に三河国の松平家を従属させました。
その時に、松平家の嫡男だった家康は、人質として駿河国に送られました。家康8歳のことです。
1555年(弘治元年)に14歳で元服し、「元信」に改名し、1557年(弘治3年)3月、瀬名姫と結婚しました。
これは、政略結婚だったようです。
元信(家康)は、岡崎城の城主の立場であり、今川一族の瀬名姫と結婚し姻戚関係を結ぶ
ことで、三河国の支配を維持しようとしたようです。
二人の間には、嫡男信康と、亀姫が生まれました。
しかし、結婚生活は、冷めていたようです。
名門今川家の娘である瀬名姫は、今川の人質だった元信を見下していたようで、
元信は、瀬名姫の態度に我慢する日々だったようです。
その反動で、その後多くの側室を抱えることになります。
2.桶狭間の戦いと三河国独立、織田家との関係
1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いが起こります。
京への上洛途上、尾張国桶狭間にて、義元が織田信長に討ち取られた、あまりにも有名な戦いです。
元信(家康)は、同行して大高城におりましたが、義元討死を聞き岡崎城に戻りました。
その後嫡男の今川氏真が、織田に弔い合戦を仕掛けないのを見て、今川を見限り三河国は今川から離れ、独立を果たしました。
築山殿と、信康、亀姫を人質にとられましたが、今川方の捕虜との交換で、
岡崎城に呼びました。
1562年(永禄5年)、織田信長と同盟を結びます。(清州同盟)
ここで、元康(家康)の嫡男、信康と信長の娘、五徳姫の婚約が成立します。
しかし、これが築山殿と家康の不和になる原因だといわれています。
築山殿からすれば、信長は、叔父義元の仇になります。
その織田家との姻戚関係など、納得できなかったでしょう。
すでに、この時には、二人は離縁していたのではないかという説もあります。
築山殿のことを、「御前様」ではなく、「信康御母様」と書いている文献もあるからです。
三河国独立により、築山殿に遠慮する必要はなくなり、側室とばかり会う別居状態が続きました。
築山殿の侍女のお万が妊娠した際は、築山殿は烈火の如く怒り、身ぐるみをはがして、庭先で鞭をすえながら追いかけまわしたという逸話も残っています。
3.信康の結婚と、五徳と築山殿の関係
1567年(永禄10年)、信康と五徳姫が結婚し、岡崎城に入りました。
築山殿も、信康の生母として入りました。
それまでは、城外の築山の館に住んでおり、築山殿と呼ばれました。
築山殿は、五徳のことは、快く思っていませんでした。叔父の仇の娘です。
五徳も信長の娘ということで、自分が格上だという思いから、尊大な態度をとっていたようです。
信康もそんな五徳に遠慮し、我慢をしておりました。
二人の間に、娘が二人できましたが、男子ができないことを口実に、
築山殿は、信康に側室を持つようにすすめます。
それは、武田家家臣の娘でした。織田からすれば、武田は仇敵になります。
信康は、その側室を寵愛します。これが、信康と五徳の不和の始まりになりました。
4.築山殿・信康事件の発端
築山殿の嫌がらせもあり、我慢しきれなくなった五徳は、
1579年(天正7年)、十二か条の訴状を信長に送ります。
その中には、信康の悪行や、築山殿の嫌がらせ、行動が書かれていましたが、
武田勝頼と内通している、という一節がありました。
五徳のお付きの侍女が、勝頼の密書を盗み見たことを聞いた五徳が、
事実確認せず、信長に言いつけました。
岡崎では、1575年(天正3年)大岡弥四郎事件というのがありました。
信康の町奉行だった、大岡弥四郎が武田と内通し、謀反を試みた事件です。
未然に発覚し、大岡弥四郎は処刑されました。
未遂に終わったことで、勝頼は、岡崎攻撃を、長篠城に変えたともいわれています。
長篠の戦いは1575年(天正3年)5月に始まっています。
その事件に築山殿も参画していたという話もあります。
築山殿と信康は、この事件後妙な動きをしています。
三河直参の三河衆を味方に引き入れようとする動きをしていました。
それが何のためかわかりませんが、それを知った家康も、三河衆に関わらないように言いつけ、動きを監視することしかできませんでした。
信康以外に、跡継ぎがいなかったからです。
信長は、五徳の訴えの中にあり、岡崎の酒井忠次にも事実確認をしました。
酒井忠次は、概ね事実と認めましたが、何も言いませんでした。
信長が、処罰を命じたというのは、わかりません。
信康は、父家康に三河衆と分断させられたことを知り、親子は対立していくことになります。
しかし、ここで、家康の側室お愛の方に男子(のとの二代将軍秀忠)が生まれます。
家の存続に憂いがなくなった家康は、信長に相談します。
信康は、信長の娘婿にあたりますから、当然勝手に処罰できません。
信長は、「家康の思い通りにせよ」とだけ言ったそうです。
5.事件の顛末とその後
家康は、1570年(元亀元年)に信康に譲った岡崎城に、1579年(天正7年)8月3日に入り、信康を追放、堀江城に移しました。
築山殿は、信康の助命嘆願するために、浜松城に向かう途中、遠江国の佐鳴湖畔で、
8月29日、家康の命を受けていた同行していた家来に自害を迫られたが、拒んだため、
首をはねられました。
その後、首は安土の信長の元に送られました。
堀江城から二俣城に移された信康は、9月15日に切腹しました。
信康事件は、これで収束しました。
しかし、信康は、知性、武勇に優れ、織田信長も危惧させるほどの秀才だったといわれており、信長の嫡男、信忠のライバルになる恐れがあり、若いうちに摘み取るために、
信長が切腹を命じたという説もあり、本当のところはわかりません。
家康は、これ以後、正室は持ちませんでした。
ただ一人正室に迎えた朝日姫は豊臣秀吉の妹で、秀吉が天下統一を成し遂げる際に、家康と姻戚関係を持って、妹婿として形式的に主従関係を結ぶために、秀吉が送りました。
家康は、正室として迎えましたが、2年後に朝日が亡くなるまでの短い期間、仲が良かったかどうかは不明ですが、天下人になったあと、追善供養をしており、悪くはなかったようです。
参考にさせて頂きました。
https://www.touken-world.jp/tips/46522/
https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/tukiyamadono.html
https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/785/2/
https://www.youtube.com/watch?v=G1U5dZf_CnE
https://kiiroipanda.com/asahi1/