引け目
前回、僕には父に対して引け目があると書いたが、少なくとも小学生の低学年の頃から何となくそんな感情に支配されてきた。当時は引け目と言う言葉を具体的に理解する事は無かったが、何となく居心地が悪かった。
僕の父、祖父とも叩き上げで組織のトップに立った人物で、今でも従兄弟の中にはそれなりの会社の取締役や重役となっている者もいる。一族には父も含めて国から叙勲されている者も何人かいる。そうした家庭にの長男であった僕は幼少の頃から親の期待は大きく、母は高価な知育玩具や教材を僕に買い与えたり、ピアノや絵画等の素養も身に着けようと、習い事もたくさんさせられていた。ところが僕は自分の興味のあること以外には全く関心を示さず、友達とも遊ばず、自分の世界に閉じこもり、空想の世界で遊ぶのが好きだった。下駄箱のたくさんの靴をひたすら出したり片付けたりを繰り返し、訝しく思った保育士が母に、僕が自閉症なのでは?と言ったこともあったとか。
当時は軽く受け流された自閉症疑惑だが、発達障害と診断され、障害者手帳を持つ身となった今、当時の保育士に先見の明があったと思わざる得ず、3歳の頃から目に付く子供であったようだ。
そんなこんなで、当時強く求められた「みんなと同じ」が僕には苦痛で、ボール遊びやルールのあるゲーム、共同作業などは悲惨なほどなじまなかった。後年、自分の子供たちも僕に似て様々な問題を学校等で起こして来たが、血は引くものである。
父はスポーツ好きで特に野球が大好き、昭和な親子の絵にあるキャッチボールを息子と楽しみたいと思っていたのは容易に想像できるが、僕は父の期待には全く応えられなかった。投げても受けてもダメ、次第に苛立つ父の厳しい叱責に僕は委縮し、父から誘われるキャッチボールは苦行の一つだった。そこには親子のほのぼのとした絵は無く、現代のパワハラ暴言上司と出来の悪い新人社員の社会悪のような情景しか浮かんでこない。僕の父に対する引け目の源流のような絵である。
母は母で、自分がピアノを弾きたかった過去から息子にその夢を引き継いで欲しかったようだ。母は僕にピアノを買い与え、先生をつけレッスンを始めたが、これも残念な結果に終わる。母は父以上にヒステリックに僕にピアノを教えたが、全く上達しなかった。深夜まで許して貰えず、泣きながらピアノを弾く情景を今も心に持っているが、かなり辛い絵である。
簡単に2つの事例を出したが、万事が万事で、親が僕に期待するスキルは全く身につかなかった。僕は幼少より自動車が好きだったが、自分の好きな事を親の前で話しても、これは母親が主だったが、全く認めて貰えず、むしろ否定され悲しかった。基本的に僕が好きになるものは親にとっては否定せざる得ない物が多かったようである。
こうして書いて見ると随分息の詰まるような幼少期を送ったものである。両親は僕を自分たちの思う人格に仕立てたかったのかも知れない。ただ、今それを恨んだり腹立たしく思ったりはしない、戦後、物のない時代を過ごした両親、特に幼少期貧乏暮らしを経験した父にとって、自分の果たせなかった夢を子供に託すのは当時としてはある意味子供思いだったのだろうと思う。
僕が親に対して引け目を感じるのは、親の期待に添えなかった事もあるが、経済的に支えられ続けた事にも原因があると思う、こうした窮屈な家庭環境であったが、僕が必要とする物に対して両親は投資を厭わず、思春期以降、小遣い銭に困った事は無かった。親戚に裕福な人も多く、年始には驚くほどのお年玉が集まり、友人からも羨ましがられたものである。僕が算数の学習障害持ちからも分かるように、元々金勘定が苦手で、かつ自堕落な性格であるため、成人してからも金銭感覚が乏しく貯金をしたことが無かった。比較的若くして家庭を持ったが、職場の上司から「ママごと婚」と揶揄されるほどで、妻が家計を管理するようになると途端に小遣い銭に困るようになった。両親としても、特に母の意に反して結婚した息子ではあったが、こうした状況を捨て置く事が出来なかったとみえて、事あるごとに僕に経済的援助を行った。そうなると調子に乗りあちこち借金を重ねては浪費し、その借金を親に肩代わりしてもらうといった負のスパイラルに入ってしまう。その事は妻の知る由ではない事であったが、実はかなり親に寄生していたのである。こうした歪な状態は僕が妻との結婚生活が破綻し、両親から勘当された40代前半まで続いた。
離婚により親からの援助も打ち切られ、慰謝料を差し引いた給料での生活は苛烈を極め、車を含め、売れるものはみんな売って借金の精算に充てたりした。それでも自由になるお金は毎月2〜3万円だった。金勘定の出来ない僕はたちまち生活が困窮し、その頃患いかけていた鬱病が一気に悪化した。職場の後輩が見かねて僕に診療内科を紹介してくれて、診察されたのが「適応障害」。その頃、経理の仕事をしており、数字が苦手な僕にとっては公私ともに大変な状況だった。妻とは離婚はしたが、時折僕のアパートに現れて、僕の生活状況を見ていった。見るに見かねたのか、彼女が僕の給料を管理し、必要経費を差し引いた分を毎月振り込んでくれる事となった。僕にとっては電気代等の支払いを心配をせず、安心して口座の金を使い切ることができる訳である。別れた妻が別れた夫のお金の管理をするなぞ前代未聞。学生時代からの付き合いの元妻としては、憎い相手とは言え、何も出来ない元夫を捨て置けなかったようだ。この頃、検査によって発達障害と診断される。医師の診立てはADHDとASD、そして算数の学習障害(LD)だった。元妻は医師から直接僕の発達障害について説明を受けている。離婚前から予約されていた医師からの説明を彼女は聞きに行ってたのだ。僕は主治医から元妻が僕の病状を聞きに来たと聞いて意外に感じたが、その後、その事が人生を大きく変えた。
親の期待に応えられず、経済的も独立出来ず、挙句、自身の欲望に身を任せて家庭まで壊してしまった僕は、両親に対しての引け目は負い目となった。結局僕は両親の庇護、妻の庇護、職場の上司や同僚の庇護なしでは立つことの出来ない人間なのである。太宰治の小説「帰去来」の冒頭、「人の世話にばかりなって来ました。」僕はこれを地で行く人生を歩み、これからも歩んで行くのだと思う。