ウィットネス アス !
(752文字)
ケツ持ちを、ウィットネスと言い換えてみようと思う。
ケツを持つような直接性はいらなくても、見届けているということの表現こそが責任の表明である。
責任を、レスポンシビリティーと言ってみてはどうか。責めを受ける任、ではなく応答能力,応答可能性の問題になる。
ハラを切ったり土下座をするはるか以前に、常に状況を解説できるようにすること、そのために状況を定量化して認識しなければならない。
定量化が自己目的化してはならないので、簡単な線引きをして関数に突っ込み、とりあえず読み取れるものにする。その程度でまずは良い。
そうしてすいた頭と時間を、誰かを見届けるために使うが良い。
これが、なんか最近"保守主義"なのではないか、と思うようになっている。
右翼とか保守思想とかそんなんではなく、何かか自分の中で保守主義というニュートラルな言葉との一致度が高いのだ。
"そうしてすいた頭と時間を"、次の投資や創造に、というではないところが、保守主義とおもう所以である。
リベラルな人は、結構上述のウィットネスを怠っている気がする。僕もそうであった気がするが、それは結局リベラリズムが標榜する世界とは反対の事態を招来するのみである。実は保守主義的ウィットネスネス?をキチンと実践していくことの方が、世界はリベラリズムの方向に近寄ると思う。それは切腹ではなくなおも生存しレスポンシビリティーを全うする態度を包含する世界だからだ。でもその速度は近代的ではなくなってしまうかもしれない。まぁ、結局のところ急進派と穏健派(=漸進派,≠守旧派)の違いは端的にそういうことなのかもしれない。
だから、これから一層、疎外と放棄が深刻化する見通しの世の中で、ウィットネス・アス!と叫び、同時に手元の人々を見届けなければならないのではないか
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