人を喜ばせるために必要不可欠なこと
叔母が、上村松園の絵が大好きだ。
先日、松岡美術館に行くと、
松園さんの絵があって、
撮影もOKだったので、
叔母が喜ぶだろうと思って
写真を撮って送った。
覚えてくれていてありがとうね、
と返信があったけれど、
松園さんの絵の中でも、
好き嫌いもあるだろうし、
その絵が好きかどうかは、
本人に聞いてみないとわからない。
喜んでくれるだろうと
こちらの推測だけで、
はたして本当に相手が喜ぶことかどうかは、
やってみないとわからないし、
聞いてみないと気持ちもわからない。
むしろ、迷惑だったりするかもしれない。
迷惑だと気づかなければ、
親切の押し売りのように
相手が嫌がることを
よかれと思ってしているのだから、
たちが悪い。
よかれと思ってしていることが、
いいこととは限らない。
よかれと思う、その思い込みを
外さなければ、
永遠に人を喜ばせることができない。
人に喜んでもらって、
感謝されたい気持ちもよくわかるし、
そうやって自分の存在価値を感じたいのも
私もその気持ちが強いからこそ
よくわかる。
でも、そんな人ほど
恩着せがましくなる。
私がそうなりがちだから、
恩着せがましくならないために
どうしたらいいかを考える。
それは何かというと、
自分が心から望んで
それをしたいのかを感じる。
例えば、叔母を思い浮かべて
松園さんの絵の色紙を買って
お土産にしようと思った。
きっと喜んでくれるかなと思ったけれど、
実際喜んでもらえなかったら
がっかりする。
たとえ喜ばれなくても
私はそれをしたいのか。
この場合だと、叔母が喜ばなくても
私は叔母に松園さんの色紙をあげたいか。
なんの見返りがなくても
私がそれをしたいのかどうか。
喜ぶとか感謝するとか、
なんらかのプラスの反応を
相手に強要するのは、
ある意味、脅迫的な気がする。
マウントをとってくる人も
相手を支配したくて、
◯◯してあげたからと
恩を着せる。
私がそれを叔母にあげたいと思った。
叔母が喜んでくれたら、
美しくまとまるけれど、
たとえ喜ばなくても、
叔母に何かしたいと思った行為は、
悪いことではないと思う。
ただ、喜ばせる手段を間違えただけ。
喜ばせる手段は、
本人に直接聞くのが一番早い。
何を望んでいるのか。
何をしてほしいのか。
相手が喜ぶことは何かを考えたり、
直接聞いたりして、
本当に相手を喜ばせられたら、
自分も嬉しい。
そのとき、自分も無理しないこと。
自分が無理して、相手を喜ばせようとしても、
それはエネルギーが循環しない。
私も絵が好きだし、美術館も好きで、
好きな気持ちのおすそ分けとして、
松園さんの絵を叔母にあげたいなと思った。
そこに、もしも
マウンティングのような気持ちや、
わざわざ買ってあげたんだからと
恩着せがましく思い始めたら、
私は自分の状態が
よくないことを自覚しよう。
松園さんの絵を観て、
叔母が大好きだというだけあって
いいなと思った。
このどこまでも繊細な髪の表現や、
柔らかな着物の質感、
その場の気品ある世界を
つくりだしているのがすばらしい。
上村松園さんは、
明治生まれの女流画家で、
女性として初めての文化勲章受章者であり、
結婚せずに子どもを産んだシングルマザー。
「一点の卑俗なところもなく、
清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」
を松園さんは、めざした。
本当にそれを体現されているのだと思う。
その美人画に描かれている女性に
松園さんの生き方が
にじみ出ている気がする。
作品はその人の人生だから。
中学校の美術の先生が、
私のつくったものを見てそう言った。
作品はあなたそのものだから。
たとえ、叔母が喜んでくれなくても、
私は松園さんの作品に出逢えたことで
心打たれたし、その感動のために
その絵の色紙を買おうと思った。
叔母が本当に嬉しいと思うことは、
直接会って聞いてみよう。
前に聞いたときは、
本物の松園さんの絵を
一人で気兼ねなく観に行くことだと話していた。
私の喜びが、周りの人の喜びに
なることができたら
どんなにすばらしいことかなと思う。