1.17阪神淡路大震災から27年/回想+α
この日、1995年(平成7年)1月17日、朝5時47分頃、私は高知県香美郡香北町(当時;現在香美市)の自宅の2階で、地震を感じ目が覚めた。
とっさに思ったのは妻と子供が寝ているのは2階だが、それが正しいか?
それは正しいと判断した。
もっと強い地震が来ても、家が壊れたとしても、2階の方が1階よりリスクが低い。
1階は潰れて下敷きになるが、2階はそのリスクは無い。
その日の午前中、その年、参議院選挙「環境政党;農民連合、後の正式名称;いのちとみどりの市民・農民連合」をやろうと全国に呼び掛けていた私は、その会議のため関西に出向くため、伊丹空港(大阪空港)に降り立って驚いた。
空港ビルの壁や柱に(あり得ない)ヒビが入っているのだ。
地震の震源地からは結構離れた空港がこのありさまだ。
と思っていると、空港に設置しているテレビに
阪神高速道の飴のように折れ曲がり倒れた映像が流れている。
私は急遽会議に行くことをやめ、神戸に入った。
その惨状を私は手持ちのノートパソコンで文章にし、
高知新聞の読者投稿欄に、救援物資募集を呼びかける投稿をした。
そして、とんぼ返りで高知に帰った。
その記事は翌日の朝刊に載り、
その日のうちから電話が鳴りやまず、
あっという間に支援物資が集まった。
私は社員を一カ月ボランティア休暇にし、
私は社員と箱バンに満載の支援物資を持って、
翌々日には神戸に入った。
当時は、まだ警察なども十分に機能しておらず、
岡山から姫路を通り神戸に入るまでの道路規制も甘かった。
がれきのある、ひび割れや陥没のある道路を乗り越えて、
私たちは神戸に入った。
私と社員は分かれて、それぞれの得意分野でボランティアをした。
私は携帯電話と車を使って、孤立している人に、物資を届けたり、
ベトナム人を含む外国人労働者が避難している公園に物資を届けたりした。
高知では、私の投稿の呼びかけに反応して、ボランティアが集まり、
「高知ともだちネットワーク」なるNPO(当時は法人ではない)を作った。
そこは、支援物資・資金を精力的に集めて、
神戸に送ってくれた。
神戸には私の有機農産物の取引先もあり、そこも、
私と連携し、あるいは独自に
災害支援をやっていた。
そんなことを今日思い起こしてる。