戸棚の外へ
この街にも慣れてきた頃でしょうか。この街、というよりもこの生活に。新しい他者に。新しい反復に。新しい生き方に。
記憶は確実な力を持っています。昔読んだSF小説(「ギヴァー 記憶を注ぐ者」ロイス・ローリー)には、たったひとりで、人類の失った記憶を運ぶ役目を与えられた少年が登場しました。彼は「ギヴァー」と呼ばれ、他の人間が高度な管理社会のせいで忘れてしまったいろいろな記憶を託され、ある赤ん坊と共にその記憶を運ぶ厳しい旅に出ます。彼は管理社会の人間のなかで唯一、自由に夢を見ることや、性欲を持つことを許された存在でもあります。彼と赤ん坊が雪の中で凍えそうなとき、彼は「ぬくもり」の記憶で彼と赤ん坊の体を温めることができます。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」には、主人公の僕と一緒に暗い洞窟を旅する太った女の子が登場します。旅の途中で、彼女が主人公にキスをせがむシーンがあります。はっきりした台詞は忘れてしまったのですが、これも、実用的な記憶を求めた行動でした。
経験したことがあるということ、それを思い出せるということが、私たちをこの世界に繋ぎ止める大きな力のひとつなのかもしれません。ひとりの人間はひとりの人間でしかないから、その入れ物になるべく多くの価値ある記憶を詰め込むことができればいいなと思います。
他者と対峙するとき、感じる魅力の大半はその人が持っている(かもしれない)記憶の魅力のような気がします。宇多田ヒカルの「道」という曲の中に「見えない傷が私の魂彩る」という歌詞があります。魂を彩るのは傷だけじゃないけど、一番鋭い痛みが去ったあとも「傷は傷のままで」(これは確か村上春樹の言葉です)そこに残ります。思い出せるということは、思い出してしまうということでもあり、ぬくもりの記憶も、痛みの記憶も、忘れることはできません。でも他者にその傷を見出すとき、私にとってそれはとてつもなく美しい彩りを持っていたりします。
タイトル回収、失敗