逆説
悲観でも嘆きでもなんでもなく、ただ単に事実として、生命に意味は無いと思っている。
人間、意識、感情、いのち、こういうものは尊いとされるけど、尊いとはなんだろうか。
生命は尊く無い!とか主張したいわけではないが、そもそも尊いという言葉自体、単に人間の作り出した概念だ。
これは絶対的な真実だとかいう話ではなく、私個人の思想でしかないのでそこはある意味矛盾してはいるのだけど。
私は、生命は、事象だと思っている。
仕組みであり、結果であり、過程だと思っている。
生命と人間や感情は、置き換えてもいい。
古代の、原初に、タンパク質だか何かの物質が、何かの偶然で(ここにだけ何か外部的要因が介在したかもしれないね、ロマンの話)、増え、変化し、途絶えないような仕組みが生まれて、ただただ、その延長がここまで続いてきているのだと思っている。
科学的な細かいことは知らないから、納得できる根拠とともに論理的に否定されたら、あっさり「あぁ、勘違いだったね」と言うだろう程度の思想だけれど。
種の存続、繁栄という目的(に見える仕組み)を持った物質が増え、進化(とあえて言う)してきた途中に人間がいる。
だとすれば、そこには一般に言われる倫理のようなものは、本質的に何の意味も持たないと思う。倫理は人間が感情という仕組みを持ち、社会という仕組みを持ち、それらを発達させるのに必要だったから培われたもので、これも仕組みだと思うから。
だから私は生命を否定する気はべつにないけれど、頓着もすることができない。
感情は、なんなら並以上にあるから、喜怒哀楽や好き嫌いは激しいのだけれどね。
痛みや苦しみがあるのは嫌だという単純な反応ももちろんあるし、好きなものが失われるのは悲しいし寂しいに決まっている。
でももっと別の大きな部分で、人間の生き死にに興味が持てない。対個人の感情やコンテンツは別としてね。(むしろそういう感情のギミックを強く揺さぶってくるコンテンツは大好きだ。)
こんな話をして、何が言いたいかって、特に何か言いたいわけではないのだけど、強いて言うなら言い訳だろうか。
人間はある種やっぱり特殊で、意識、感情に特化しすぎたきらいはあって、だからこれはバグだとも思う。
種が種のために生き、増えてきたはずのものが、個々が個々のために生きるようになってきてしまったというバグなんじゃないかと。
だからきっと人間は滅びるし、でもそれは悲しいことでもなんでもなくただの結果であって、過程の一つであって。
あぁまた話が逸れてしまったけど。つまり個々が個々のために生きているのはバグかもしれないけれど、もうそれはそれでよくて、むしろそれしかないんじゃないかと思うの。
意味なんかないから、作った。個々が生きるために生きる。その全ての人間が抱えるバグに乗っかって、だから私はとてもわがままに生きる。いつ死んでも全く構わない(というか叶うなら早めがいいな)。開き直って生きている。
そういう言い訳。
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