「中有」から「羯羅藍」へ | 「大宝積経 仏說入胎藏会」 2
仏陀は次のように説き始められた。
「母胎に宿るには、条件が揃う場合と揃わない場合がある。まず、どのようにして母胎に入るのかを説明しよう。もし父母が愛欲を伴い交わり、母の体が健康で、受胎の時期が適しており、さらに生まれる者の『中有』がそこに現れた場合、その時が母胎への宿りとなる。
中有が母胎に宿る
中有の姿には美しいものと醜いものの二種類がある。地獄の中有は焼け焦げた木のような容貌を持つ。動物の中有は煙のような色をしており、餓鬼の中有は水のような透明な色を持つ。人間や天界の中有は金色のようだ。また、色界天の中有は明るく白い色を持つが、無色界天には中有がない。形質という形質が存在しないためだ。
中有は、手足が二本、四本、多数、または無いなど様々で、次に生まれる世界に応じるような形で現れる。天界に生まれる中有は頭を上に向けて動き、人間や動物、餓鬼は水平に移動し、地獄に生まれる者は頭を下に向けて移動する。また、あらゆる中有は神通力を持ち、空を飛ぶし、まるで天眼を持っているかのように次に生まれる場所を遠くから見ることができる。
母親の体が受胎可能な状態にある時期を『月期』と呼ぶ。この月期は母親の体質や状況によって異なる。体が弱く、健康でない母親の場合は月期が短く、すぐに終わってしまうが、健康で安楽な生活を送る母親の場合は月期が長く続く。」
「胎児が宿らない条件についても話そう。父母が交わっても、一方だけの精が出る場合や、両方とも精が出ない場合は受胎しない。また、父母のどちらかが健康でない場合、母親の体内に病気や異常がある場合も受胎は起きない。例えば、母親の体内に腫瘍や炎症があったり、過去の病気の影響で受胎器官が変形している場合がこれにあたる。もし父母が尊貴であって中有が卑賤である場合、またはその逆の場合は受胎しない。父母と中有がどちらも尊貴であっても、その業が一致しなければ受胎しない。また、中有が目の前にいる男女のどちらも愛欲を抱かない場合、母胎には宿らない。」
「難陀よ、前に述べたような場合でなく、かつ父母と子の間に相応の因縁があれば、中有が母胎内に宿ることができる。
羯羅藍と四大種
また、中有が母胎に入る際に、心が誤った認識にとらわれる。男に生まれる中有は、母に対して愛欲を抱き、父を憎む。女に生まれる中有はその逆である。過去世で積んださまざまな業によって幻覚が起こり、寒さを感じたり、大風や豪雨、さらには雲や霧に包まれるような感覚が生じる。あるいは大勢の人々の喧騒の音を聞くようなこともある。そして、業の善悪や強弱に応じて、さらに十種類の錯覚が生じる。『今、ある家に入った』、『建物の上の階に上ろうとする』、『台や殿に昇る』、『寝台に昇る』、『草庵に入る』、『小屋に入る』、『草むらに入る』、『林の中に入る』、『壁の穴に入る』、『垣根の隙間に入る』といったものがある。難陀よ、中有がこれらの妄想を抱くと、直ちに母胎に入る。こうして受胎して『羯羅藍』と名付けられるものは、他でなく、父母の精血が和合したものに、「識」が結びついて生じたものである。それはたとえば、乳の入った容器と人の撹拌によって、酥が出来上がるというように、父母の不浄な精血と羯羅藍もそうである。」
「難陀よ、羯羅藍と父母の精血との関係を、四つの比喩を挙げてさらに説明しよう。よく聞いて理解しなさい。
たとえば、青草に虫が生じるとする。草そのものが虫ではなく、また虫が草から独立しているわけでもない。草という因縁を借りて青色の虫が生じる。また、牛糞から虫が生じる場合を見なさい。牛糞そのものが虫ではなく、また虫が牛糞から完全に独立しているわけでもない。牛糞という因縁が合わさることで、黄色の虫が生じる。さらに、棗に虫が生じる場合、棗そのものが虫ではなく、また虫が棗から離れているわけでもない。棗などの因縁が合わさることで、赤色の虫が生じる。最後に、酪の場合を考えなさい。酪そのものが虫ではなく、虫が酪を離れるわけでもないが、因縁が整うことで白色の虫が生じる。羯羅藍もこのように、因(原因)と縁(条件)が調和して、大種(物質の構成要素)が働き、それによって身体が生じるのである。」
仏陀は続けられる。
「難陀よ、物質の構成要素である地・水・火・風の四つが、具体的にどのように働くかというと、地界は固さ、水界は湿り気、火界は温かさ、風界は動きを性質とする。もし、羯羅藍が地界しか持たなければ、すぐに乾いて崩れてしまうだろう。たとえば、乾いた麩くずを手で握ったときのように、形を保てない。また、水界だけがあれば、地界がないために流れてしまうだろう。そして、火界が欠けていれば、温める力が不足し、胎児は腐ってしまうだろうし、風界がなければ、胎児は成長せず大きくならない。これらの四つは、過去の業を原因とし、互いを条件となる。それぞれの役割は、地界が支え、水界が保ち、火界が成熟させ、風界が成長させるのである。」
名色と五蘊
「難陀よ、羯羅藍は父母の精血だけで生じるのではない。母胎だけでもなく、過去の業だけでもない。これらすべての条件が揃って初めて生じるのだ。たとえば、丈夫で穴のない種が、適した土地に植えられ、十分な水分を受けてはじめて芽を出し、茎や葉、花、果実へと成長するようなものだ。また、昼間という時間帯、太陽光を集めるレンズ、乾燥した牛糞などの条件が揃ってはじめて火を起こせるように、父母の精血などの因縁が合わさることで、胎がはじめて生じるのだ。父母の精血が羯羅藍を形成し、これがいわゆる『色』というものとなる。そして、受、想、行、識の四つがその『名』とされ、この『名』と『色』が結びついて、いわゆる『名色』が生じるのである。」
「難陀よ、この五蘊(色、受、想、行、識)は実に嫌悪すべきものであり、名色は輪廻の諸世界、すなわち欲界、色界、無色界に依存して生まれ出るものだ。私は、このような存在をたとえ一瞬たりとも称賛しない。それはなぜか。諸有(三界)に生まれることは、苦しみの根源であるからだ。
たとえば、わずか一片の糞であっても悪臭を放つように、いかなる生もまた、それがどれほど微少であれ、苦しみを内包しているのだ。この五蘊はそれぞれ、生成し、存続し、そして成長するが、最終的には必ず衰退する。生まれることは苦しみであり、存続することは病である。そして成長と衰退とは、老いや死を意味するのだ。
難陀よ、考えてみよ。いったい誰が、この生死輪廻という大海に愛着し、母胎の中でこれほどの苦しみを味わうことを望むというのか?」
(つゞく)