血が踊るまで、散歩
彼女とは、会話が合う。言葉が、僕たちのためだけに、横たわっている。音一つ立てず、穏やかな躍動を体の芯に感じさせながら、時々気まぐれに刺激を与えてくる。いつまでもそばにいたい。居心地がいい。二人のために閉ざされた空間と、世界のために開かれた空間が、うっとりと眠るほどのハーモニーを奏でて、僕たちを包み込む。
彼女のSNSでの文章を見たけれど、あれは自己顕示欲や大衆迎合のためになされるものではない。あくまで、自己向上のためだ。文章が上手いし、考えが深いのだ。それでいて友達への返答はユーモアがある。僕以外にも彼女を愛し彼女に愛される人がいることは、僕にとって至上の喜びであるべきものだ。
僕は彼女の句読点の使い方が好きだ。呼吸が合うなと思って、ますます好きになる。例えば、好きな人の首筋の黒子を斜め後ろから眺めるのと同様の恍惚感を、彼女の句読点に感じる。こんなところに神秘を見出すのは僕だけかもしれないと、人知れず、自惚れる。実際の彼女は、髪でうなじが隠されているのだけれど。
そんな相手だから、軽々しく話せないような内容まで踏み込んで言ってみたくもなるのだ。家族関係について話した会話は、絶大なインパクトがあった。水彩絵の具しか知らなかった子どもが、初めて油絵に対面したかのような。
「理想の男性像は、兄なんだ」
彼女は、照れたように発した。僕の目を見てはいながらも、瞳孔からは逸らして。
胸が、心臓ごと締め付けられた。全機能が停止して、もちろん声すら出なかった。
そんな、秘密を明かすような言い方しないでよ。わかってたよ。
脳味噌に血が巡るのを待って、僕はにやりと、言葉を返した。
「ねえ、やっぱり。前に会話したときにそんな気がしたんだ」
嘘ではない。僕には予測できていた。彼女が好きになりやすいのが年上男性だというのも、お兄さんの影響を受けているに違いない。
「えっ、なんでわかったの」
「聞いていればわかるよ」
むしろ今まで他の友人に指摘されたことはないのかと、不思議に思った。だって、どう考えたって、彼女の頭の中には兄の姿があるだろう。悔しいくらいに。彼女が「兄」と発するとき、僕の中の血が逆撫でされたように、違和感が生じる。
だから、聞かずにはいられなかった。
「お兄さんに対しては、どういう気持ちなの。それは、恋愛対象にはならないの」
素朴な疑問、といった風に投げかけたけれど、これは気になって仕方がないことだった。僕は随分攻めた、自分でそう思った。
「恋愛にはならないね。兄弟愛って感じで、決まってるかな」
丁寧に言葉を選ぶように、彼女がゆっくりとそう言った。大きな試練を越えてきた後の女神の微笑みを、僕は彼女に見た。
随分きつい質問を僕はしたかもしれないのに、ごまかすわけでもなく正面から答えてくれた彼女を、素敵だと思った。
「仲、いいんだね」
僕は嬉しくなった。過剰な関心を押し隠して、彼女にそれだけ言った。お兄さんに少し嫉妬していたけれど、彼女が笑顔で話すのが嬉しかった。妹らしい純朴な笑みが彼女から溢れていた。初めて見る表情だった。
「まあ、そうかもしれない」
「自分のところは、家族と仲いいとは言えないな。一緒にいて楽しめる空気が生まれないんだよ。嫌いというよりは、合わない。金さえあれば絶縁したい、と何度も思った。だから今、自分だけ東京に来て離れて暮らしているのは、正解だと思ってる。距離は大事だよ」
僕は家族関係が決してうまくいってはいないことを、彼女の笑みを邪魔しないように、なるべく柔らかく、伝えてみた。
「そうなんだ。私も、家族にわりと絶望はするけどね」
「意外」
絶望、を旧知のように、もう越えてきたもののように、言う。彼女はそんな人だ。
「関係をあきらめた方が楽だとは思うよ」
彼女もこんなことを言うのか、と予想外の流れになった。
「ああ……」
家族関係について思い当ることがある僕は、同意せざるを得なかった。
「でも、それはできないところに家族や他者との関係性がある」
「できないものかな」
「というか、私が家族を捨てるということは、多分私の中から他者の存在を捨てることとほぼ同義だけど、他者の不在な人間にはなりたくない」
僕は初めて彼女を知った気がした。沈黙の中で彼女の発言を消化して、僕は思ったことを言った。
「家族が大切という感覚がよくわからないんだ」
「大切という感覚がないこと自体は別に悪いことではないよね、きっと。ただ私にとっては否応なしに重大な問題って感じ」
「ちょっと話飛んでいい?」
「うん」
「自分はね、生理が遅かったんだ。ていうか二次性徴が遅かった。胸オペしなくたって胸ないじゃん、ってくらいだし。身体が女になるのを拒んでいたんだと思う。
だって四歳年下の妹より遅かったんだよ、生理。親も心配して、親戚にまで相談してたらしいんだ。病院にも連れて行かれた。
そのときもし自分が子供の産めない身体だって言われたところで、母親が泣きわめくのに困惑はしたかもしれないけど、自分の身体には納得しただろうね。ああ、そうなんだね、了解ですって。何でそんなに女になることを求められたのかわかんない。
そんなだったから、初潮きたときは母親が勝手に喜んでた。バカみたいに。お婆ちゃんにまでおめでとう、良かったね、って言われて。何が?って思った。赤飯炊かれた。あーはいそうですかって、そんなことすら思わなかった。
自分と家族、自分の身体と心が離れていく感じがあった。多分そういうのも蓄積されて、家族を頼るとか信用するってことができなくなっていったんだね」
彼女は黙って聞いていた。僕の言葉を自分の心で解釈して飲み込むような、ゆるやかな時間が流れた。
自らを「シスジェンダー」、はっきり女だと自覚している彼女にとって、そうではない僕の言葉はどのように届くのだろう。
通常の二倍くらい、言葉を吐き出すのに息を溜めて、今度は彼女が話した。
そのとき僕には、家族の話もセクシュアリティーの話も生理の話も、どうでもよかった。
ただ彼女と時間を共にしたかった。
他の人に堂々と言えない鬱憤まで聞いていてくれたのが、こそばゆく、嬉しかった。綺麗事以外がすっと出てきてしまうほど、居心地がよかったのだ。
自分本位で話しすぎたな、と反省はしている。
少しでも長く一緒にいたいからといって、聞きたくない話を聞いたり、言わなきゃいいことを言ったりしてしまうんだ、そんなものなのだ。反省はするのに、後悔はできない。共有できた時間と空間が、幸せ過ぎた。情けないほどに。
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