お坊さんの死生観日記 ~思想と臨床~ #004
こんにちは。今朝は少々冷え込みましたが、良い天気になりました。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。タイトル写真は私が住込みでお勤めをしているお寺の参道から撮影したものです(1ヶ月程前)。今年は桜の開花が早く、入学式のシーズンには大方散ってしまっているでしょうね。写真の桜は早咲きの桜で、伊豆の河津桜の仲間のようです。
さて、火曜日の夜は、「お看取り・おくりびと」というテーマで、看護師、僧侶、葬祭業者が自由に語るトークセッション(オンライン)を聴いています。先週の回には、私もパネラーとして発言する側に参加させていただきました。Clubhouseというアプリ上で展開されるディスカッションであり、第一線の現場で活躍している方々のお話が聞けるのが魅力的ですね。また、私は2月までの1年間、東北大学大学院が開講する【臨床宗教師】教養講座を受講していました(論文受験があり、合格倍率は五倍程度!)。コロナ禍の影響で、全てオンラインでの授業になってしまいましたが、宗教者が臨床(病院や在宅で)に関わる上で、必要な知識と少々の実践を学び得ることができました。来年度も継続する予定です。
本日はClubhouse内での話題を紹介いたします。ある緩和ケア担当の看護師さんが、【臨床宗教師】の役割に関心を寄せて頂き、病院の現場で気になっていることをお話ししてくれました。
自分が担当している患者さんが、ICUや病室でお亡くなりになる。ご遺族・葬儀社と連携して、ご遺体を引き取りに来てもらう為、専用の部屋(霊安室)にお運びする。治療も看護も、命が尽きたら実質終わりであり、存命中の別の患者さんの元には業務は山ほどある。亡くなったばかりの患者さんをその部屋に残して、ご遺族が死別の悲しみにあるなか、自分はすぐに、別の、元の、看護業務に戻らなくてはならない、そのことがとても後ろめたい気持ちになるのだという。
2、3時間後か、葬儀社が引き取りに病院に到着し、看護師さんも出発の際にはお見送りをする。その時は、慣習として、病院の裏口からである。正面玄関は使えない。「死」とはやはり、伏せるべき、隠すべき対象なのであろう。ご遺体はご自宅に運ばれるか、もしくは葬祭会館の霊安室に運ばれる。前後して、菩提寺が明確な家では、家族が亡くなったとの連絡をお寺に入れてくれ、ここで初めて住職が登場し「枕経」なるものに出掛けていく。地域によって違いはあろうが、ご遺体を囲む様にご遺族・親族、隣組の方々が集まっており、葬儀社が諸々スタンバイしてくれるなか、住職がご遺体の枕元で、最初の線香をお供えし読経をするのである。お亡くなりになってから、何時間が経過しているだろうか。ご遺族は、お坊さんの「枕経」が終わるまで、線香や焼香するのを待っている地域もある。
昭和30年頃、ほとんど多くの人(全死亡者の8割近く)が、ご自宅で人生の最期を迎えていた。大家族に囲まれ、お寺の住職も、息を引き取る瞬間にはその場に居て、新帰寂の霊位に対して、読経をしていたかもしれない。そしてご遺族の方へ向き直り、お悔やみを述べると共に悲しみに寄り添い、法話をして労わったり励ましたりしていたかもしれない。今日では、どうであろうか。ご遺体を前にして、葬儀社やお坊さんが行う作業や儀式は、この70年間でそこまで変わっていない。亡くなってからお坊さんが登場するまでの時間が大幅に遅くなってしまったのだ。
明日続きを書きます。臨床宗教師の役割について、自分なりにまとめてみようと思います。
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