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孤独

最近孤独という語に接することが多い。自分が孤独という語から何を連想するのか少し書いてみる。

観光バスに乗っている。修学旅行でも、バスツアーでも、高速バスでもいい。夜のはじまり、かすかに残っていた空の橙の領域が細い細い線となり、やがて消える、その時間帯に。僕は窓側に座っていて、外を見ている。といっても、半分はそれに反射した自分を見ているようなものだ。他の乗客は疲れて寝ている。或いは、くたびれた顔でスマートフォンをいじっている。バスの内装は、とくに頭上の荷物棚は、揺れるたびに心地よい軋みを立てている。照明はカバーが付いた薄暗い蛍光灯のみで、むなしさや無常を引きおこす。バスは片側二車線の道路の追い越し車線側を走っている。渋滞にはまっているので、とてもノロノロと。自分の見ているもう半分はブレーキランプの赤の光だ。隣の車の運転席には男が乗っている。暗い車内で、ただ前を見ている。そういう記憶。

谷川俊太郎の詩に「二十億光年の孤独」がある。谷川俊太郎は嫌いではなく、本棚を数えてみたら7~8冊もあった。といっても内容はその1/4も読んでいない。で、とにかく。僕は谷川俊太郎の若いころのとがった詩が好きだ。若い青年が、どこかにあきらめを孕んだ目で世の中を見ている、そういう詩。あとはそれからしばらく経ってからの、現代詩らしい「沈黙の部屋」とかのほうがもっと好みだけれど。とにかく、詩の3段から6段を引用する。(この数え方であっているだろうか)

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

二十億光年の孤独/谷川俊太郎(1952年)

離れている。とてつもなく離れている。とてつもなくとてつもなく離れている。そういう類の不安を、僕は孤独という語で思い出す。

夜の電車に乗っている。いつもの通勤電車。ロングシート。立っている乗客はいなくて、ところどころに空席がある。209系の薄汚いグレーの化粧板。薄暗い裸の蛍光灯。窓の外には何も見えない。みんなくたびれた顔。サラリーマン、サラリーウーマン、学生、塾帰りの小学生、みんな。家庭で、社会でこの人たちが何をしているかは想像もつかない。けれど、みんなくたびれている。ブルートゥース・イヤホンをつけてスマホを眺めている人、前に傾いて寝ている人。最寄り駅まであと30分。自分は孤独だと強く感じる。自分と他人の間の距離はそれこそ二十億光年あって、その人たちと永久に会うことはない。そういう絶望。だから、仄かな希死念慮。

孤独だから人を求める。これは自然なことだと思う。けれどそれを素直に表出するのはよくないことらしい。そうなのだろう。

人間が嫌いという人は孤独を感じるのだろうか。嫌いが故に、そういう性癖ゆえに感じないのかもしれないし、嫌いだからこそ感じるかもしれない。いや、これは雑すぎる推論だ。

この人は孤独を感じるのだろうかというような人がいる。あなたの孤独はどんなものですか。ありますか。教えてください。

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