自己療養
村上春樹のような小説を書きたいと(そしてそれは彼の小説を書くうえでの自己療養の試みをしたいということでもある)思うことがある。しかし他方、村上春樹のような文章が書きたいなら村上春樹の小説を読んでいれば十分じゃないかと、その間に多少のズレはあるにせよ大して変わらないのではとも思う。
小説を書くというのは目的ではなく自己療養のための手段やたくらみであると思っている。それに則るのであれば、僕が村上春樹のような小説を書きたいと思い願うのはズレており、とにかく僕は何らかを書くべきなのだ。
しかしここで疑いが挟まる。小説という手段は僕に適切なのか、或いは向いているのか、と。短歌を作っていた時期がある。俳句にも興味はある。両方ともまったく向いていないというわけではないとおもう。小説では/にはそれがない。もちろん大事なのは向いているだとか上手だとかでなく、書くことだ、自分のために。
だがまあいったん置いておいて仮に短歌や俳句を作るということにしよう。そこには文体がないのだ。無論、無いからと言って短歌には短歌のリズムや味わいがあり、俳句には俳句のリズムや味わいがあるのである。
けれど、今の僕は村上春樹の文体の味わいが書きたいのだ。心地好いのだ。全部―小説と短歌と俳句と―やる暇はないと思う。おそらく。だから読むだけで満足しておくとか、それでも何かしら書くとか、決めるべきなのだ。こんなことに600字も悩んで文章を書いている場合ではない、まったく。
折り合いをつけるのが苦手だ、思考が絡まっている。誰か相談に乗ってください。本当に。(8/22)