見出し画像

タダタダイキル

人は生まれてから死ぬまでの時間は「生きている」時間。

生命活動:生物の臓器や細胞や細胞が生命を維持するためにする活動と定義できます。心臓が動いたり呼吸したり。皮膚が代謝して垢になったり。

そう考えるととてもシンプル。

ではなぜ生きる意味を見出そうと悩むのでしょう。

生きることには息をして心臓が動いてという基礎的なことだけでなく、社会活動も含めた新陳代謝も生きることですよね。心がなければ悩むことも無い(?)のかもしれませんがそうも行きません。

では日々の活動に意味が持てると少し気が楽になるのでしょうか?

画像1

ひとは一人で生きているわけではない。社会の中にあることで初めて他者と自身との境界を認識できるんです。その集団の中で自分の立ち位置で責任やストレスが変わるんですよね。

ん? 役割ってなに?

社会の中の分業は異種の特殊化した位置(Positions)の間で相互作用の形式を取るが、これを私達は役割と呼んでいる。
社会的な役割は、一般的に知られており、そしてそれゆえにこれらの役割において適切な行動への期待を決定付ける社会規範によって誘導された適切で、許容された行為の形式が含まれる。
役割は、行為者と呼ばれる個人によって占められる。
諸個人が社会的な役割を認容する時(人々は役割を合法的で建設的であると考える)、彼らは役割規範に従うために苦痛を招くことになるし、役割規範に違反する人々を罰するためにもまた苦痛を招くことになるだろう。
状況の変化は社会的な役割を時代遅れなものか違法なものにすることもあり得る(すなわち、社会的な圧力が役割変化を引き起こすような場合において)。
向社会的にふるまうことの満足と同様に、報酬の期待と処罰の予想は、なぜ行為者が役割要件に従うかを説明する。

ざっくり社会的に求められていることですよね。人間関係とも言いかえられます。生きる意味を考えるより役割を理解して人間関係のストレスをすこし感じづらくすると生きる意味を探すような思いを感じなくてすむかもしれないですよね。

様々なケースがあると思いますが、大概が自分以外の他者との関係性の中で悩み、自分のあり方に疑問を感じてしまうことが多いのでは無いでしょうか?もう少し言えば、自己否認や自己非難を繰り返し『なんで?』となってします。

そんなとき私を救ってくれたのは【アドラー心理学】でした。

・私たちは変われないのではなく、変わらないという決心を下しているだけである。 すべての悩みは対人関係の悩みである。 どんな悩みにもどこかで他者が介在する。 自分は他人の期待を満たすため、他人も自分の期待を満たすために生きているわけではない。 人生におけるあらゆる失敗の原因は、自分のことしか考えていないことにある。

アドラー心理学では目的を重視した解釈をすることで、自分以外の他者に問題や原因を見出すのではなく、目の前の課題の対応に対してなぜ活動を選択したのかという理由を探します。どんな目的のためにどんな行動を起こしているのか?自分の人生の課題は自分だけのものと考えます。そして課題を分離することで、自分と他人がそれぞれ独立した存在で対等な関係だと考えます。

画像2

好きな言葉です。アディダスのキャッチコピーですが。

自分自身の人生を生きていくこと。そこに気持ちを集中しましょう。自分以外の誰かに責任を持たせて、出来ていないことを避難しても嫌な思いが帰ってくるだけ。

自分の選択を淡々とやる。それがいいと思います。人の言葉に惑わされずにただただ生きる。自分の目標に向かって。

どうも久合田です。鍼灸院の経営の傍らでリハビリテーションの振興をコツコツ行っています。よろしければフォロー下しますと喜びます(*^^)v