異形の匣庭 第二部⑪-4【囲われた火種】
「その傷、見てもいい?」
鳴海は疲れや苛立った表情を抑え、改まった様に真面目表情を作って僕に聞いた。どこかで見た事があるその表情は、付喪神をお出迎えした時に見せた物と似ている。
熟れた手つきで包帯を外していき患部が露わになると、うわ、と小さく漏らした。
「うわって何うわって。そんなにやばそうなの?」
「ちょっと黙って」
毎回乱暴な言い方をどうにか出来ないものかと思いはするけど、たかが出会って数日の関係性であれこれ言うのも憚られる。凄く言いたいけど。
「これ、誰に……何に刺されたの?」
「えっと……ベス? って女の人で、ヨーロッパで子供食べてたっていう」
「ああ、なるほどね……だからか……」
「いやなんか一人で納得してるみたいだけど、説明してくれないの?」
「あのさあ、あんたは何も知らないんだから、こっちに任せて黙って聞いて答えるだけ答えればいいの。それとも何? 聞きたくない訳?」
首を曲げて鳴海の方を見ると眉間に皺を寄せて睨みつけていた。
僕の何が気に入らないのか……。
「分かったよ……だから教えて」
「教えてくださいでしょ」
「……教えてください」
僕は今人としての何かを試されているかもしれない。わざわざちょっかいを出しに来る物好きもいたし多少の我慢はしてきたつもりだけど、鳴海はこう、また新しいタイプだ。こうも人を苛つかせることが出来るのもある意味才能と言える。どう対応したらいいか分からないし、とりあえず従うのが吉か。
「自分が何者かも分かってないあんたに特別に教えてあげる。こういう傷って言うのは手術で綺麗に傷跡は消せても、あんたっていう存在自体には傷を残す事があんの。今回はそれ。削り取るって言うか、齧ったケーキは元に戻らないでしょ。そんな感じ。新しい生地で埋める事も出来なくはないけど、傷があったっていう事実は消えずに楔として残る。この楔ってのは奴らにとっては甘い匂いを漂わせる目印になんのよ。特にあんたは極上の餌だろうね。なんてったって神に呼ばれるくらいなんだし」
「え、え、え、ちょっと待って、神って何どういうこと」
「話区切るなって」
「あ、うん、ゴメン」
「チッ、ほんとにさぁ」
そんな分かりやすく舌打ちしなくても。
「簡単に言うと、あんたはヤンキー達に目をつけられやすくなったって事。分かった?」
分かったような分からない様な話だが、とにかくこの傷が原因で幽霊や忌世穢物に狙われやすくなるってことか。
……どうしてそんな大事な話をセツさんはしてくれなかったんだ?
折角気持ちを切り替えて帰ろうと思った所だったのに、心配が増えただけじゃないか。
「物のついでだから教えてあげるけど、出雲大社であんたが見た『らしい』門、恐らくだけど……常世への入口だよ」
「常世って、神様がいるっていう」
「そう」
だからか。だからあんな不自然に鉱石が混ざりあっていたのか……神様何でもありだな。
と、携帯に映っていなかった門を思い出しながらも、勿論本質的な問題はそこではないと継も分かっていた。
「門が見えるって事は神様に呼ばれてるって証拠。それも今まで聴いてきたどんな人よりもはっきりとね。これまで声を聴いたり夢に出て来たりしてお告げの類を受けた人もいるけど、そのどれとも格が違う……もしあのまま門の中に入ってたらもう戻って来れなかったかもしんないんだから」
「それは所謂神隠しってやつ?」
「そうそれ。ほんとに感謝してよね……あんたが呼ばれた理由を詳しくは知らないけど、神仏に近しい人間ってのが一定数いるみたい。妖怪とか熊ならまだしも神様に連れて行かれて戻って来れるなんてどだい無理なんだから」
「いや妖怪でも熊でも無理だとは思うけど……」
「対処の仕様がないって話。言葉が通じるだけでこうすればいいが通じないの。出来る事はせいぜいお願いするくらいだからさ。物理的に殺せる動物と違って、システムが分かれば対処出来る幽霊や妖怪と違って、想像するだけでほぼ何でも出来て寿命も無い様な存在が私達と同じ感覚な訳ないじゃん?」
「ふうん……」
出雲大社に祀られている神様といえば大国主神(おおくにぬしのかみ)で、つまりその大国主神に気に入られて呼ばれたって事なのか。神様のお誘いを断わるってそれはそれで良くないんじゃ……。
「はい、どうも。もう服降ろしていいよ」
そうこうしている間に包帯を巻き終わったらしく、綺麗に巻き直されていた。口は悪いけど高次元の存在に対する所作はしっかりしているし、応急処置も出来て知識も豊富。心無しか痛みも引いている、気がする。彼女こそ一体何者なんだろう。どうやってセツさんと知り合って手伝うようになったんだろう。
ここにいると疑問ばかりが増えていって帰るに帰れない。
「あ」
まずい。急いで携帯を取り出し時間を確認すると、時刻は既に予定の時間をかなり過ぎてしまっていた。乗り継げばまだ間に合うだろうか。しかしここがどこかも分からない。とにかく駅からかなり離れた位置にいる事だけは分かる。土地勘も無いのに……鳴海に案内してもらうしかないか。
「ここから出雲市駅までどれくらい!?」
「はぁ? まぁ1番近いのが大社駅で……そこから乗り継いで40分くらいじゃない。多分もうバスも無いと思うけど」
「そんな……」
今から子供一人でホテルなんか取れる訳が無い。どこかで朝まで待つしかない……もう一度セツさんに連絡するのが良いかも……いやでも電話番号聞いてない……。
一人焦る僕の思考に、蚊帳の外が気に入らないらしい鳴海が割って入ってきた。
「あんたもしかして帰るの?」
「そのつもりだったんだけど、と言うかセツさんに帰れって言われて」
「この傷のせいで?」
またいつもの様に眉間に皺を寄せる。
「そうらしいけど……守れなかったから東京に帰れって……僕が知ろうとすればする程、悪いやつが寄ってくるからって」
「…………」
黙る、睨む、暴言のサイクルしか鳴海の中には無いのかもしれない。
「痛っ!」
「今余計な事考えたでしょ」
「違うよ……」
こうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。
それともここに居させて貰う方が安全なのかも、と思ったけれど一瞬で考えを改めた。
壊れた玩具を含む大量の雑貨があるのを忘れていた。幾つもの窪んだ目がこちらを見ているのは、意識したからかどうにも居心地が悪い。地面は横になれる状態でも無いし……公園とか駅前のベンチは補導されるだろうし、された事がある。公衆トイレはさもありなん。色々と知る前なら神社の境内も選択肢にあったのに、今は全く良いと思えない。日中ならまだしも夜に行くのは多分自殺行為。
神様は日没と共に眠るのだから。
「いいとこ知ってる」
鳴海が立ち上がり言った。
「朝まで過ごせる場所があればいいんでしょ? ちょっと歩くけど……どうせ私も今日そこ行くつもりだったし」
「誰かの家?」
「家……まあ家っちゃ家か……」
どこか含みがある言い方だが、泊まれて安全ならどこでも良い。鳴海が安全だと思えるならきっとそこは安全なのだろう。
もう少しの辛抱だと痛む節々と脇腹に鞭打ち立ち上がり、鳴海に連れて温室を後にした。
月光が少しずつ民家の明かりに打ち消され、『はちはく』という名前のスナックを横切った時、温室にあった玩具の中に見知った物があったと今更ながらに気付いた。思い返せば初めて会った日に、鳴海はあのごちゃついた玩具屋敷から茶碗を1つ拝借していた。それに似た色の茶碗と、子供の邪悪な無邪気さによって産み出されたザリガニの人形。
温室にあった物は全部屋敷から持ってきたに違いない。わざわざ持ってくる理由が何であれ、聞いても流されるだろうから聞きはしないけれど。
黙って着いていくことはや30分。流石にもうこれ以上動きたくないなと弱音をこぼそうとした時、1軒のアパートの前で鳴海が立ち止まった。
そこは以前飲み屋が1階に入っていたようで、和風な出で立ちの土壁(に似せたコンクリートではある)と薄暗い店内に山積みにされた椅子が認められた。いつからやっていて、いつ閉店したのかは定かではない。
その横はシャッターが降りており、何の店舗が入っていたのか分からない。2階には既に入居者がいるようで、2部屋とも明かりが点いている。
「ここ?」
「そう」
ぶっきらぼうに答える素振りはいつもと変わりない様にも思えたが、僕に答えたと言うよりはそのアパートに向けて呟いた様に感じられる。
鳴海は徐に襟ぐりに手を突っ込むと、1本の鍵を取り出して閉店している飲み屋の鍵を開けた。
「早く入って、見られると面倒だから」
言われるがまま、僕は薄暗い店内に入っていった。
どこにでもありそうな店内の内装は所々剥がれ落ちてはいるものの、ほったからしにされているにしては埃が殆ど落ちていない。まだ日が浅いのか、あるいは
「ここお母さんがやってたんだ」
カウンター内にあるハイチェアに座り調理台に手を置いて、哀相を込めた調子で鳴海が呟いた。僕は適当な椅子をカウンターから降ろしそれに座る。
「じゃあ掃除は鳴海が?」
「そう、いつかその時が来たら使える様に」
「その時?」
「私、ここで店開きたいんだ」
雑貨屋か料理屋かは決めてないけどとにかく開きたい、調理台に目を落としたまま鳴海は言う。
あれが父親だとして、素直に喜び後押ししてくれる人物だとは到底思えない。しかし母親はそうとは限らないし、店を開きたいくらいだし慕っているのだろう。
いや、慕っていた、のだろう。
「お母さんさ、私が小さい頃自殺したんだ。すぐ近くのアパートで首を吊って」
「……それは」
それは何となく、そんな気がしていた。こんな遅くまで出歩いていて連絡も無ければ、父親がああで、母親がやっていた店の跡に店を出したいとくれば、自ずとその結論に近づいて行く。病気か離縁か死か。
「お母さんが死んでからどういう経緯で知ったのか知らないけど、あんたのお母さん、燈さんが私をセツさんに引き合わせた。風の噂だったってセツさんは言ってたけど、本当の所は分からない。それであの山の上の屋敷でお世話になってた。あんたを知ったのもそん時」
「じゃああの集合写真の女の子って」
「私」
「やっぱりそうだったんだ」
「まぁあんたは忘れてた訳だけど」
「それはごめん」
面影があるからきっとそうだろうと思っていた。そのままだと言うと怒られそうだから止めておくとして、まるっきり全部記憶を封印してしまったのは間違いない。こんな印象深い女の子を忘れるわけが無い。
「でも店を出す前にやんなきゃいけない事が沢山あるんだよね……」
「卒業とか?」
「まぁそれも。調理師免許とか営業許可証とか色々あるけど、些事だよ些事」
「些事って、使いたいだけ──」
「あいつをぶっ殺すことに比べればね」
「…………」
冗談じゃなかったのか。温室で聞いた時よりは抑えているけれど、明らかな憎悪と決意が感じられる。
世に言う反抗期だからだとか、親との折り合いが悪いとか、そういうレベルではない。
「なに、そんなこと言っちゃいけないよーとか言うわけ?」
「いや別にそんなつもりはないよ……ぼ……俺も願ったことあるし」
「ふうん」
「でもなんで? さっきのと関係があるの?」
「まぁそれはそうだけど、あんたに関係あんの? 東京に帰るのに?」
「それは……そうだけどさ」
確かに彼女の言う通り僕には関係無い……東京に帰って、もう来ないようにするんだから。鳴海とはなんの関係性の進展も無い……。
「はぁ……あんたが思ってる以上にあいつがクソだってこと。胸糞悪い話を無理に聞く必要なんかない。これは私の問題で私だけでやらなきゃいけないから……言えるとしたら、お母さんの自殺の原因はどこからどう見たってあいつのせいで、もう決意も準備も出来たっていう話」
警察か誰かに相談すべき、だとは思う。人殺しは良くない……いや、良くないと思い込んでいるだけで、死んだ方が良い人間なんてこの世に5万といる訳で。ただ僕が鳴海に殺人者になって欲しくないと思っている、それだけの話なのかもしれない。
人に殺意を抱かせる程の何かを、あの父親は仕出かしたのだから。
「どうせ覚えてなかったんだし、全部すっぱり忘れて新たな生活を始めるのが1番良いって。セツさんも言ってたでしょ? 私も心からそう思うよ。やり直すチャンスがあるなら何度でもやり直せばいい」
鳴海にチャンスは無かったのか、殺してしまえばこれから先やり直すチャンスは訪れないのではないか。
その問いを口に出す事は無く、僕らはそれぞれ椅子を並べて眠りについた。