校舎内の禁足地 十
水滴が私の頬を滑り落ち、口元を通って床に落ちました。指紋の無い指でなぞられた様な感触に、何故か私は強い怒りを感じました。起こった感情が私からなのか流れ込んできたのか分かりませんが、とにかく強い怒りを感じたのです。しかし恐怖を上回ったのはほんの一瞬で、すぐさま背後に立つ霊の事で頭が一杯になりました。これまでの人生で出会わなかった目に見えない存在が、具体的な形を成してそこにいる。半透明だとか足が無いだとか歪な形をしているなんて事はなく、昔ながらの制服を着た女の子の姿で目の前にいる。水に濡れているのを除けばあるいは普通の子に見えたかもしれませんが、彼女が「一人でない」奇妙な確信と、彼女の目が放つ殺意がそうではないと思わせるには十分な程でした。霊を見た事がなかったのに霊だと確信できるなんて変な話ですけど、例えるなら冷気が人の形をしている感じでしょうか。明らかに熱が無くて、ただ寒さだけがあるというか。抗えない……大きな自然の力みたいな冷たい殺意の塊。その塊がゆっくりと動き始めました。足が私の体をすり抜けるとその部分だけがぞわりと冷え、ごっそりと熱が消えた様でした。彼女は目の前の私を無視してそのまま田添君の傍に歩み寄りました。彼女が黒い水溜まりの上に立つと、まるで底無し沼に倒れこんだかの様に田添君の体がゆっくりと床に沈んでいくんです。私は
「やめて!」
と思わず叫びました。お願いやめてと、何度も叫びました。どうにかしたくて這いよろうとしても金縛りにあって全く動けず、ただ、叫ぶだけ。田添君の髪が、服が、お気に入りの眼鏡が、ゆっくりと沈んでいくのをただ見ているだけ。田添君の体の半分が沈んだ頃
「んふっ」
小さく鼻で笑う声がしました。誰が笑ったの? これを見て誰が笑えるの? 今度はもっと確かに
「へへっ」
と笑ったのです。私は声がした方を向きました。そうであって欲しくはないと願いつつも、その声が黒田さんの物であるのは見らずとも分かります。けれど確認せずにはいられませんでした。黒田さんは口を痙攣させながら吊り上げ、笑っていました。本当に幽霊を見たから? 恐怖で引き攣っている?
「お……おい、なあ……ガキを二人、連れて来たんだぞ。しかも一人は……お前を人柱にした、家のガキだ。な、頼むから、返してくれよ、梨香子だけでいいからさ、会わせてくれよ……頼むよ」
私は心のどこかでやっぱり助けてくれるのではと淡い期待をしていたのでしょうか……彼女は黒田さんの言葉に耳を傾けたのか、これまでゆっくり沈んでいた田添君をあっという間に消し去り、田添君が吐き出した黒い水さえその影に飲み込みんで。つい数秒前までそこにあった田添君の姿形は、一切の痕跡もなくどこかに消えた……それから彼女はまたゆっくりと動き始め、私の方を向きました。この時、初めて彼女の顔をはっきりと見たんです。暗いはずなのにどうして見えたのか分かりませんが、とにかく、筆舌し難い程に怒りに歪んだ顔を私は見た事がありません。般若よりも不動明王よりも怒り狂った顔が、私を見降ろしました。田添君やこれまでに連れ去られた子供達と同じか、それ以上の死に方をするだろう。そう思いました。でもそれと同時にこうも思ったんです。
彼女はきっと私よりも辛くて痛い思いをして死んだんだろうな。
背格好からして私と同じくらいか少し下の子が、顔が歪む程怒り、人を憎んだのだとしたら。何の為の人柱だったのでしょうか。何度も何度も人柱として捧げられてしまった子供達は、本当にこの土地の為に自ら命を投げ出したのでしょうか。
「ごめんなさい」
思わず口から出たのは謝罪でした。
「ごめんなさい……私が謝っても意味が無いかもしれないけど……こんな辛い思いをさせて、ごめんなさい……」
私は続けました。
「本当はあなたも……皆も死にたくなかったはずなのに……もう、私達の為に何もしなくていいのに……皆もごめんなさい……」
私が謝る必要は無い……本当にそうでしょうか? 当時の私が本質を理解していたか、それは怪しいものですが、それでも自分の代わりに子供が差し出されていた事は……
「お、おい、なんだよ、連れて来たんだぞ! 梨香子返せよ! なあ! 一番欲しかったのこいつだろうが!」
黒田さんが叫びました。早く私を殺せと叫び、私や私の家族への暴言を吐き、彼女を焚きつけます。しかし彼女は私を見つめたまま、襲うでもなく動こうとしません。私は、彼女が私に何かしてほしいのだろうと考えました。きっと謝るだけでは足りない、もっと別のことで、それは多分私にしか出来ないこと……今まで誰もやろうとせず彼女が一番望んでいること……
私はふと、三人で地図を見ながら話している場面を思い出しました。細かい元々は先祖の家以外何もない土地で何人も人柱をたてていて、そこに学校を建てる事で「かすがい」にした。生きたまま水に沈めたり、あるいは土に埋めたりするというのなら、じゃあ彼女はこの町のどこにいるのか。それはきっと誰も近づかない場所……まさに、この教室のような。
「私が……出してあげる」
彼女がほんの少し、揺らいだ様な気がしました。
「どんなに時間がかかっても私がそこから出してあげる。絶対に出してあげるから、お願い……もう、これ以上、誰も連れて行かないで……何でもするから……」
教室の床に零れ落ちて出来た涙の水溜まりが、田添君が出した黒い水と同じようにすーっと流れていき、彼女の足元へと吸い込まれていきます。
それが原因だったとは思いませんがきっかけだったのは間違いなく
「うわっ!」
と、黒田さんが叫び声をあげました。すると驚いて手放してしまった懐中電灯が私の方に転がってきて、黒田さんの方を向いて止まりました。
「何で俺なんだよぉ!」
そう叫ぶ黒田さんの体が、ゆっくりと床に沈んでいきます。右手を上げようとすれば左手が、左足を上げようとすれば右足と胴体が。抗えば抗う程沈んでいくのです。黒田さんは私に向かって叫びました。
「てめぇ何やったんだよ!ふざけんじゃねぇぞ!このっ……ぶっ殺してやる!!」
私に近付こうと藻掻く度にどこかが深く沈み、絡みついていく床。そして、思い切り飛びかかろうと動いてしまった黒田さんは、足を捕られた勢いのままに両手と頭を床に飲まれてしまったんです。土下座の形で身動きが取れなくなってしまい、そこから這い上がろうと必死に体を動かす黒田さん。
暫くして水の中で息を吐き出す様な音が床を伝わって私の耳に届きました。その音と共に中途半端に見えている体は痙攣を始め、それから2回大きく体が跳ね、完全に動かなくなりました。
私はその様子をただ茫然と見ていただけでしたが、もし彼女に止めるよう訴えていたとしても結果は変わらなかったでしょう。
私は彼女が消えるのを見届けると、一気に緊張の糸が切れ気を失ってしまい、目が覚めた時には朝になっていました。
剥がれかけた新聞の隙間から差し込む朝日が教室を照らし出すと、黒い水が完全に消えていて、後には奇妙なオブジェが教室の床に生えていたんです……
「その後は教室を開けにきた先生に発見されて、病院へと連れて行かれました。勿論道中も退院後も質問攻めにあいましたけど、全てを答えるにはまだ私の理解が追い付いてなかったので、端的に答えるだけでしたが」
「どうして……黒田さんは中途半端に残されたんでしょう」
「私が思うに理由は二つあって、子供じゃなかったからがひとつ」
「……人柱となるのは子供だったから、ですかね?」
「恐らくそうだと思います」
「もう一つは?」
「怒り」
「怒り?」
「はい、祖父がそうだったように、黒田さんも水の中で苦しんで死んでいます。自分たちがされた事と同じように……共通しているのは、二人とも誰かを犠牲にして願いを叶えようとしていたこと。祖父は私を守ろうとして小学生の誰かを、黒田さんは梨香子さんに会いたいが為に私を。罰すると言うと大袈裟ですけど、見せしめというか」
「気付いてほしかった?」
「かもしれませんね」
「なるほど……それで結局、彼女はどうなったんですか? 出してあげられたんでしょうか」
「いえ、まだです」
「え……まだ、教室に?」
「はい」
「10年以上前の話ですよね? じゃあまだ生徒達は消えてってるんじゃないんですか?」
「いえ、彼女は待ってくれていますが、でもそれももう終わりになります」
「終わりに? どうして?」
「私がこれから終わらせに行くからです」