緋笛
昔昔ある所に、この男に任せればどんな獣も百発百中と噂された腕利きのマタギがいた。
名を「源左」と言った。
源左はその噂通りの腕前で、獣の目と鼻の先にまで気配を消して近寄り、心臓を一発で撃ち抜いたという。余りの早さと撃たれたことにも気付かないその狩猟の技術から、「知らずの源左」という二つ名が冠されていた。
ある冬の日、いつものように山へ入っていると、前方に一頭の羆が現れた。距離もあるからか、まだ源左には気付いていない。ゆっくりと後を付け、そのまま風下から迂回して先回りし、羆が通りそうな場所で待ち伏せする。
羆は案の定狙った場所に現れた。この顔つきからして雄であろう。
源左の手に緊張が走る。
……ズドン
と、鈍くも高い音が辺り一面に響き渡った。
羆はその場で立ち上がり、二三歩後ろ足でよろめいた後、巨体を雪上へと伏した。
暫く様子を見、弾を込め直して構えながらゆっくり近付く。思った通りの雄の羆である。見るとまだ息があるらしく、胸部が微かに上下している。このままでも直に死ぬだろうが、早くトドメを刺してやるのが良い。
銃から背中の槍に持ち替えた瞬間、横の茂みから何かが飛び出してきた。
「む・・・・・・」
まだ歩き方にも幼さの残る小熊である。
よもや、こんな雪の積もる時節に子連れ熊に出会すとは・・・・・・はて、どうしたものか。
雪解けまでは明月をあと三度拝まねばならない。それまで小熊が餌の乏しい雪山で生きていけるのか、甚だ疑問である。
ここで殺してやるべきか・・・・・・。
「・・・・・・待たれよ、名うての」
親熊が源左を制して、息も絶え絶えに言う。
「是を・・・・・・見逃してやっては、くれぬか」
「ふむ。俺とて無闇矢鱈に殺生したい訳では無いが・・・・・・しかし親も居らぬこの時節では、十日と生きられぬのではなかろうか」
源左は手の中の筒を構え直す。
親熊は口から多量の血を吐きながら言う。
「確かにそうかもしれぬ・・・・・・然し、まだ生すら十分に謳歌させれず、死なせたくはない・・・・・・俺の事は骨の一つまで使ってくれて構わん・・・・・・後生一生だ」
源左は一考した。こう頼まれてしまっては、ここで殺すのも罰が悪い。いずれ消え去る命だが、これも何かの縁だろう。
源左は小熊に向き直り、一つ問うた。
「おい、お前は生きたいか」
小熊は源左を見据えて答える。
「おらは・・・生きるってのが何なのかはよく分かんねぇが・・・・・・でも、おっ父が言ってた川を登ってくる太ぇ魚を食ってみてぇなと思う」
「・・・・・・そうか」
源左は構えた槍を親熊の心臓目掛け、寸分の狂いもなく突き立てた。
一瞬苦痛の表情を浮かべたが、すぐに愛おしそうに子熊の方を見やり、そのまま親熊は息絶えた。
槍を抜き、血を雪で拭きながら言う。
「まだ理解出来ぬかもしれぬが、生きる事は殺す事でもある。そこには善も悪も無い。お前の親を俺が殺す事で、俺と俺の女房倅は生きる。逆もまた然り。しかしお前はまだそれすらも分かっておらん。ただ食べたいでは駄目なのだ」
小熊は眉間に皺を寄せたまま黙っている。
源左は懐から小さな笛を取り出し、ぴゅーっいと高らかに鳴らした。それは山々に木霊して遠く彼方まで響き渡った。
「直に仲間がやってくるが、お前はこのまま去れ。そして理解出来るまでしかと生きるのだ。この雪になど屈せず、木の根を齧り、春の芽吹きを感じ、勇壮な新緑を知り、香りある果実を頬張るのだ・・・・・・それと、この笛をやる。普段こんな事はしないと難く決めているのだが、お前の無垢さと父の頼みだ。どうしても、どうしても助けがいる時に吹くといい。一度だけ手を貸そう。さあ行け」
小熊は一つ谷を跨いだ小高い丘の頂きで立ち止まり、二声三声吠えると、そのまま姿を現さなかった。
それから幾年が過ぎ、源左の倅も見違える程大きくなり、成人を迎える年であった。
その年は淫雨が続き、雑草ですら根から腐るような冷夏となった。秋もその余波を受け、実らぬ秋となった。経緯は分からないが、更に追い討ちをかけるように南方から開拓民が現れ、抵抗虚しく土地を奪われてしまったのだった。源左達はその日の食事ですら、まともに食えなくなっていった。そんな生活に良しと言える訳もなく、次第に開拓民と揉める事が増えた。
そして、事件は起きた。
その開拓民の村で人喰い熊が現れたと言うのだ。女子供が三人犠牲になり、山に引き摺られていったがまだ腹を空かしているのか、その辺りを彷徨いていると噂が流れていた。
その噂を聞いた源左の胸の内には、確信ともとれるある予感が去来していた。
数日とせぬ内に近辺を取り締まる頭の鈍そうな駐在が源左の元を訪ね、熊殺しを手伝えと言った。源左は
「お前達が林を焼き、森の木を切るからだろう」
と応えたが、自分の指揮のせいで人を死なせた、このままでは更に殺され俺もいつかは食われるのだと泣き喚き始めた。余りに見苦しいし、聞くと二、三十年来の仲の男も深手を負ったと言うではないか。源左としてもこれ以上犠牲を増やすのも良しと出来ない。
源左はその日の内に支度をし、妻子を残して駐在と開拓民の村へと向かった。
到着したのは翌朝。早い時刻にも関わらず人が押し寄せ、簡素な掘っ建て小屋の役所兼駐在所は倒れんばかりであった。駐在は何故か好き好んでその喧騒へと飛び込んでいったが源左はそこに見向きもせず、怪我を負ったマタギの元へ急いだ。
命があるだけ儲けもの。この姿を見てもそう思える者が居るだろうか。むしろ殺されていた方が良かったのではと口から出かけた程であった。
右上腕がごっそりと消え、左の脚は脛の上部からあらぬ方向を向いている。更に額から胸に掛けて右袈裟掛けに爪の跡が刻まれていた。頭部を覆う包帯が若干歪に見えるのは、熊の手が当たった際に凹んでしまったのだろう。
然し、辛うじて無傷の左腕が確かこの男の利き腕ではなかったと思い至ると同時に、生への執着が如何に強きかを思い知った。
その男は出血と痛みで朦朧としつつも、仔細を語った。
「ありゃ……足跡を追って洞に潜ってる時だ。ふいに笛が鳴ったんだ……ぴゅーっいってな……どうも聞き馴染みのある音だった。俺ァすぐにお前のもんだと思ったよ。だから、ああ……話をする為に洞を出て音のする方へ向かったんだ。だが、お前の代わりにあれが……まるで小せぇ山かバカでけぇ岩が、いきなり雪の中から現れて……為す術なくこのザマよ……」
運良く近くまで捜索に来ていた他のマタギが、あまりの巨躯に恐れを為してしまいてんで狙いもバラバラではあったが、熊目掛けてありったけ撃ちに撃った為に山の奥へと逃げ帰っていったのだと言う。そういう経緯であった。
源左の予感は確信に変わった。
やはり件の熊はあの時の羆の子である。笛の音はさることながら、奇しくも源左と同じ手法で獲物を狩っている。これだけ長い年月が経っているのだ。待ち伏せする様な手法を用いても可笑しくはないのだが、きっとそうではない。あのたった一瞬の俺の狩りが脳裏に焼き付き、無意識的に真似ているに違いない。
源左はぶるっと一つ身震いをし、覚悟を決めた。
あの羆は俺が仕留めなければならない。
そして恐らくはこの狩りを最後に、熊を狩る事はないだろう。歳も歳だがそれ以上に、これもまた確信めいた物が心の内に生まれていた。そんな想いを感じ取ったか猟友は安心した様に眠りこけている。暫くその顔を見、すっくと立ち上がり駐在所へと向かった。
目立つ事をしたくはなかったが、移民や役場まわりの人間が山に入らぬよう忠告せねばならない。熊のなんたるかを知らぬ者が頭数だけ揃えた所で、無駄な犠牲が増えるのは目に見えている。
駐在所の前では未だてんやわんやしている群衆と、それに揉みくちゃにされ顔に痣を付けた例の駐在がいた。
「村を襲いに来たらどうする」
「守る為の人員はあるのか」
「子供を返せ」
「そもそも開拓等無理だったのだ」
「お前達が代わりに食われれば良かった」
等、喧々囂々の様相であった。そんな中駐在は源左を認めて、助け舟でも来たかの様な表情を浮かべて声を上げる。
「あゝ!源二さん!やっと来られたか!ほら皆さんに説明をお願い出来ますか!」
その声と同時に村人達は静まり、それまでこの駐在にあった視線の束が源左に集中する。
奇異の目。源左にとって久しぶりのことであったが、やはり心地の良い物ではない。不安や嘲笑の色が目に浮かんでいるのが、手にとるように感じられる。
似たよう狩人が重傷を負ったのにお前は大丈夫なのか、と。
開拓民にとっては殆ど未知の種族であるし、時折山から降りてきては皮や肉等を売り無言のまま去っていく。大人からしても不気味な存在である。
逆に源左からすると、自分達が産まれ育ち、衣食住の全てが詰まった土地を「国」という名の下荒らしていく者達である。初めから関係がうまくいくはずがなく、こんな非常時においても対話や協力といった選択肢がない。他の仲間達と同様に、源左も必要以上に踏み入る事はしなかった。
「俺は・・・・・・これから山に入るが三日経っても戻らぬ限り誰も山に入るな。狩りの邪魔になる」
源左は端的に伝え立ち去ろうとした。だが
「戻らん時は俺達ゃどうしたらええんだ」
誰かがボソリと呟いた。それを皮切りにこれまで駐在に投げつけていた不平不満の矛先を変えた。あれやこれやと口々に捲し立ててはいるが、己の身一つでは何も為せず常に他者に縋ってしか生きられぬ、ただ図体だけの大きい子供が駄々を捏ねている様にしか見えなかった。
何も羆に立ち向かえと言っているのではない。其れこそ愚か者のする事である。火を絶やさず小数で動かず、日中にでも簡素だろうが柵を作る。羆がその気になれば全くと言って良い程に無意味ではあろうが、抵抗、生を求める事を放棄してはならない。
源左は、万が一自分が件の羆を殺したとしても、この者達は何も変わりはしないだろうと考えていた。長い物に巻かれ権力あるものに盲目に従い疑問を持ちもせず、集団とならねば生きてはゆけぬのだと。
やはり俺の為すべきは一つか。
そう悟った源左は無意識に猟銃を左肩から右肩へと掛け替えた。
目は口ほどに物を言うとは言うが、この時の所作には源左の様々な想いが乗っていた。中には自分達に向けて銃を撃つのではと勘違いした者もいたが、大半はただ押し黙ってしまった。
その光景を見、源左は一人山へと入っていった。
冬の山は人の住むところでは無い。
草木は枯れ生き物は姿を消し、白銀の世界で生きる術を持った極小数の者だけが、微かな生命の営みを次の季節に命を届ける。人はそのほんの一部を頂いて生きているに過ぎない。
人も自然の一部である、故に開拓も自然な事であると主張する者も中にはいるが、それ自体は間違いでは無い。しかし次の世代へと残す為のものでなくてはならないはずが、他者の住処を奪ってまで山を均し田畑を拵えている。そして余りに多くの人の手が介入し、自然のあるがままの姿ではなくなってしまった結果があの熊である。
長年マタギとして山に入り、時には羆を仕留めた男をして「山」と言わしめる程の巨体。窮鼠猫を噛むと言うが、住処も餌も失くした肉食獣の凶暴性が相まればどうなるかは最早検討が付かない。
その穴なしのせいか人の手が入ったせいか、その両方かは解らないが、衣擦れの音一つ立てるのが躊躇われるくらいの静寂が白銀の世界を包み込んでいた。
怯える小鹿が狼の一挙一動足を伺うような緊張感に体は熱くなりつつも、然し、目に入る一面の雪の様に頭はひんやりと冴えている。踏みしだく雪が固まり深い足跡を残していき、小高い丘を一つ越え、谷を跨いで少し緩やかな傾斜を登ろうとしていた時であった。
源左はある物を認め、足を止め銃を素早く構えた。
それは冬の山には似つかわしくない鮮やかな赤。歳も知らぬ女子が着ていたであろう布の切れ端が、太い木の根元から顔を覗かせていたのである。もうここは熊の縄張りに入っている。木を中心に三間をぐるりと歩いて熊やその他の肉食獣がいないか確認し、改めて木の下へと向かった。
出来る限り音を立てず周囲を警戒しながらその貯食場に近寄って行く。雪で腐敗が進みにくく且つ風が無い事が起因してか、半間程の距離でやっと血と獣の匂いと腐臭が鼻をついた。
銃を槍に替え、布の周辺をざくざくと掘り進めていく。奴の事を知る上で重要な事ではあるが、すぐ側までやって来ていないとも限らない。
「・・・・・・」
雪を掻き分けるにつれ腐した匂いは強まっていき、除けた雪は染み付いた血で黒く変色し固まり小さく氷の塊を作っていた。現れた死体は全部で三体。聞いていた数には一つ足りぬがいずれも殆ど原型を留めておらず、子供は最早頭蓋の一部しか残されていなかった。この子供が連れ去られたのが一昨日と駐在から聞いていたが、小さかったからかすぐに食べられてしまったようだ。大した深さでは無かった為にすぐ体が見えて来たが、この時、欠損してしまった体を見ながら源左は別の事を考えていた。
大した深さではない。こんなに木の根が張り雪も積もらず、埋めるに相応しくない場所を選んだのか。凶暴性が増し飢えによって更に思考が出来なくなっているとも考えられるが、それにしてもあまりに人里に近すぎはしまいか。来ようと思えば十の子でも来れてしまう簡単な道のり。熊の膂力からして重かったなどという事はまず考えにくい。であればわざとここに埋めた事になる。百舌の早贄と言えば貯食の中でも有名であるが、これはただ食料を確保しているだけではない。自身が縄張りを誇示する為である。もしや早贄を真似ていはしまいか。着々と減っていく山を追われ里へと降り、人が自分よりも弱く容易に狩る事の出来る存在なのだと知ってしまった。鹿を追うよりも効率が良いのはまず間違いがなく、物によっては多少肉付きもあって何より美味い。勝手気ままに狩りに出れば尽きぬ餌が手に入るし、縄張りには入って来ない。女子の胴から下は完全に消え去っているが、右の乳房を噛みちぎった跡から推察するに最低でも八十貫、いやそれ以上の体躯を誇っているはず。この山に置いて敵になる者は限られるだろう。やはり早贄と考えるべきか。
源左は死体を残し奥へと歩みを進めた。
更に一つ丘を越した頃、風と共に雪がチラつき始めた。それから一刻と待たずに吹雪に変わり、足跡は作った傍から埋もれていき視界は正に色を失ってしまった様だった。これでは痕跡を見つけるのは至難の技。もう間も無く日が落ち完全に視界が無くなってしまう。今日は一旦引き上げるのが吉だろう。
そう考え引き返そうとした時であった。
・・・・・・ぴゅーっい
笛の音だ。かつて俺が父から譲り受け長年使い続けた昔懐かしいあの笛の音。風が木を揺らし雪に阻まれても遠くまでよく響き、幾度となく命を救われたあの笛の音。
目と鼻の先に奴がいる。俺が山に入った事を分かっていて呼んでいるのだ・・・・・・行かねばなるまい。
源左と羆の物語に決着が迫っていた。
獣の遠吠えと聞き間違えそうな風が裸の木々を揺らし、どこかの山肌からずり落ちた厚い化粧が谷底まで一気に全てを削り取っていく。
身丈より遥かに大きい岩の合間を縫い、雪の重みに耐えられず中程から折れた老木を踏み越えなだらかな斜面へ出る。眼下には隆々と流れる川があり、母川回帰する鮭の群れが白波を立て、子供を産み死んでいく。その鮭を狙った熊や飲み水を求める動物達は、こぞってこの凍らぬ川へとやって来る。上流に近い事も付近には大きい岩が多く、昇ってくる鮭をその岩に叩きつけて気絶させるのが常套手段である。人の肉を覚えたとしても飲み水は必要でるし、この付近に潜んでいる可能性が最も高い。笛の音が聞こえたのもこの辺りである。
風と雪、川の流れる音で周囲を認知しずらい。頼りになるのは長年マタギとして山に入った知識経験則、それに自身の勘のみ。
下流に向かい暫くすると三段の小さい滝が現れる。この滝の頂上には巨石が二つあり、川を挟んでいる為に他より川幅が若干狭くなっている。故にここを鮭の狩場にする羆を何度も見た事があった。斜面や川辺に姿は無いが確認しておく必要はあるだろう。その巨石の右手前にある背丈程の岩を迂回し、滝下を覗き見ようとしその瞬間であった。
毛が逆立ちピリピリとする感覚が源左の全身を稲妻の如く貫いた。ふと沸いた小さな疑問であったが、源左を突き動かすには充分過ぎた。
体を左方向へ投げ出したのと同時に、つい今しがた横を通り過ぎた動かない筈の岩が雪をグワンと払い、太い幹の様な腕をこちらに向かって振り下ろした。その腕は源左の足を掠め、肉を抉り、辺りにパッと赤い花を散らした。
幾度と無くここを訪れた源左は、この周辺では雪崩や土砂流が起きにくい事を知っていた。大規模な地形の変化が無いのであれば岩の位置が変化する事もまた無い。幾ら雪の積もる速度が早かろうと、まさかここにただ蹲り、源左の訪れを待つなどと誰か考えるだろうか。あまりに自然にそこにあった為に一瞬気付けなかったが、マタギの勘が、動物としての本能が源左を動かしたのだ。
右足の腱が切れているのを瞬時に理解し、雪の上に転がった源左は素早く体勢へと立て直した。
目に飛び込んで来たのは源左の身丈の倍以上もある巨大な羆であった。羆が鋭い眼光を源左へと向け威嚇の為に持ち上げた体は予想よりも遥かに大きく、目測だけでも百貫を越している。その太い腕は人の胴程もあり、その体躯は正に巨大な岩、口から見え隠れする牙は源左の持つ槍先。これまでに出会ったどの熊など比較にならない。
羆が口を開けて息を大きく吸い込むとあの笛の根が高らかに鳴り、そして風の音を掻き消す怒号が山々に木霊した。
命を賭けた勝負は、瞬き二つの間に決着した。一度目は源左の足を羆の爪が抉った時。
源左が携えている銃は父より受け継いだ単発式の村田銃である。非力で射程も己の身を危険に晒さねばならない程に短く、何より一発撃つ毎に装填しなければならない。つまり、一発でも外せばその後に待つのは死である。
然し、この極限の状態にあって源左の心は一時の凪であった。風の音も雪が木を折る音も、羆の声も一切が無と為していた。左足を立てて右膝を雪に突き刺して固定し、照準を心臓に合わせる。羆の左側、肋骨の三枚目。軽く息を吐き、止めて、引き金を引いた。
・・・・・・ズドン
あの日と同じ銃声が響き渡った。源左がもう一度瞬きをして目を開けると、ゆったりと雪上へと体を伏していく羆の姿があった。姿勢はそのままに弾を詰め替えるが、その必要は無いと分かっていた。
羆がこちらを見、息も絶え絶えに源左に問うた。
「・・・・・・俺は・・・・・・食いたい、だけだった。親父の言う・・・・・・魚は、終ぞ食えぬし・・・・・・・・・・・・お主達と同じではないか。何が違う、何故・・・・・・・・・・・・助けてくれなんだ」
そして静かに目を閉じた。
それから二日掛けて村に戻る頃には体は冷え切り、右足は腿から下が壊死して切り落とす他なかった。片足では山に入るのもままならず、源左のマタギとしての人生は直感通り終わりを迎えたのである。
翌年、息子に狩りについて教えを請われたが頑として教えず、時代の流れと共に街へと移り住んだ。更に数年が経ち息子が上京して、妻が流行り病を患い四十五でこの世を去ったのを契機に村へと戻り、死するまで一人で暮らした。隣村の住民達とはやはり良好な関係を築ける事は無かったらしいが、時折住民が食料や生活に必要な物資を届けに行くのを目撃されている。
件の羆であるが、源左より場所を聞き出した他のマタギ、それにあの駐在が向かったところ滝壺に沈んでいるのを発見したそうだ。あまりの巨体に引き上げる事が叶わず、有志に潜らせ確認させると奥歯と頰の間に笛が癒着していたと言う。冬が過ぎ春が来ると骨だけになり、いつしかその骨も消え笛だけが川底に残り、夏に降った大雨が山肌を削り落とした際に埋もれてしまった。
晩年、息子が連れて来た孫にせがまれて一度だけ銃を持ち、山に向かって一発撃った所
ぴゅーっい
と、どこからともなくあの笛の音が聞こえたそうである。
その夜、息子に全てを語り尽くした後、源左は静かに息を引き取った。
雪が一面を白銀に染め上げ雲の切れ間から射す朝日が山肌を拭い、風が木々を揺らして怒号を上げる様な、そんな凍える冬の日の事であった。
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