生成変化としての文章を愛す
目を瞑ると、知覚がさらさらっとなる。だから、別のアイディアが浮かんでくる。これを言語化するのは至難の業で、この至難の業を丁寧に実現しようと思えば、これを人に伝えたいという強い欲望が必要となる。
Flutterの技術習得は「至難の業」で、これをわざわざしたのは、Mybraryをつくりたい作品があり、かつ人に頼むお金がなく、なんなら自分の手でつくりたいという強い欲望があったからである。
つまり、ベルクソンから私が得た知見の感覚を丁寧に言語化するには、伝いたいという強い欲望が必要になるが、Mybraryほどそれを丁寧に具現化して伝えたいとは思っていないということになる。
なるほど、そうだったのか。
おれはそんなにおれの知見を伝えたいとは思っていない。これは何かをするための手段であり、それを使って何が創られるかということに興味があるのだ。
つまり、それは数学の基礎的な公式や定理のようなもので、それ自体に美しさも感じているが、おれが興味があるのは「基礎科学」でなく「応用科学」なのかもしれない。
それでどのようなものが創れるか、ということに興味がある。
なるほど。基礎理論はそれをバージョンアップするためのもの。基礎のみに特化する指向性が少し弱いと思っていたのは、応用への指向が強いからだ。
基礎に特化するには応用を欲望するが、応用に特化するには基礎を楽しみすぎる。
つまり、自分は学者にはなれず、経営者にもなれない。この架橋するような欲望が存在する。
たとえば武術という応用課題のうちに基礎科学を見て楽しんでいる。しかし、哲学書を読んでも必ずその思想の応用可能性について強く考える。
つまり、どのように使うか、そしてそこに何が潜んでいるか。
この2つについて顕かにする。これを行き来する。というのが自分の強い欲望である。
となると、哲学対話日記も、すでに話したことをレポートすることにはさして欲望がない。それを使って今なにが、どのような文章がつくられ、またこの対話に何が潜んでいたのかを知る過程に興味がある。
生成変化の真っ只中の文章。
これに興味があり、それ以外は(自分が書く場合において)意味がないと思っている。だから、何か情報を伝える文章を書くのはむしろ嫌いなのだ。
文章の醍醐味は生成変化にあると思っているし、むしろ最も生成変化を楽しめる手段としての文章を愛している。
何がつくられ、何が潜んでいるか。
しばらく、どのようなときでもこれを意識してみよう。そこに颯爽たる風は潜んでいるだろうから。