建築家竹内綠の仕事①-地域のお宝さがし-103
■建築家竹内綠の経歴■
建築家 竹内綠(図1)については、第10回(大谷仏教会館)で紹介しましたが、ここでは、他の仕事も含めて、再度紹介します。

竹内綠について調べ始め、名簿で、「竹内綠 攻玉 (勤務先空欄)尼ヶ崎市別所村(以下略)」を確認したとき(注1)、名前の「綠」は「禄」の誤植でないかと思いました。というのも、大正時代に岩元禄(ろく)という建築家がいたこと、「ミドリ」というハイカラな名前に戸惑いを感じたからです。なお、出身校の攻玉は、攻玉社工学校とありました(後述)。
その後、作品が『近代建築画譜』などに掲載されていることを知りましたが、まだまだ不明な点ばかりでした。大阪の近代建築に詳しい知人に聞いても、名前は、「リョク」や「ロク」という方もいて、要領を得ませんでした。やっとご子息にめぐり会えたとき、最初に名前をお聞きしたら、「ミドリ」とのことでした。久留米出身の竹内於菟吉・ゲン夫妻の長男として、明治6年(1873)、9月1日、東京神田黒門町に生まれました(注2)。
注1)『建築学会会員住所姓名録』(昭和8年)。名前は旧字体で表記。
注2)竹内に関する記述で断らない場合は、ご子息竹内勉氏の聞き取りによ る。以下、同じ。
●灯台局●
竹内は、15才頃(明治21年)から、逓信省灯台局に勤務していたおじ山本哉三郎について、全国の灯台建設工事に従事したそうです。灯台は、欧米諸国と締結された「改税約書」(慶応2年[1866])に設置が明記され、第1号として観音崎灯台が建設されました(明治元年、注3)。
灯台は、明治3年に工部省の所管となり、担当部局は灯台寮(明治4年)、灯台局(明治10年)となり、同18年の工部省の廃止にともない、逓信省に移管されます。おじ山本は、竹内が灯台局に勤務する以前から、灯台建設に関わっていたと思われますので、工部省灯台局の頃から勤務していたと推定されます。
明治12年以降、日本人の技術習得が進んだこと、お雇い外国人に支払う高給が財政を圧迫したことなどから、灯台は主に日本人によって建設されるようになります。このような、お雇い外国人から日本人技師への入れ替えは、他分野でも見られます。
竹内は、20才頃(明治26年頃)、灯台局勤務のかたわら攻玉社土木科に入学、明治31年6月に卒業し(25才頃、注4)、27~28才頃に灯台局を辞します。
注3)長岡日出雄『日本の灯台』(成山堂書店、1993年)。灯台に関する記 述は、断らない場合は、同書による。
注4)竹内の入学年は不明なため(攻玉社学園による)、ご子息の聞き取り から推定。同学園は、東京都品川区に継続している。
●攻玉社●
攻玉社は、明治初年の六大教育家の1人、近藤真琴が開いた攻玉塾にはじまります。同塾は、慶応義塾・同人社とともに、「明治三塾」の一つといわれました(注5)。
明治5年の学制の領布により学佼となり、明治8年に航海測量習練所、同13年に陸地測量習練所を開設するなど、航海・測量技術などの教育に注力します。明治15年に、鳥羽商船学佼(現国立鳥羽商船高等専門学校の前身)を設立、同17年に陸地測量習練所を量地黌と改称し、明治19年に土木学の講義を始め、同21年に量地黌を土木科とし、31年には土木科を夜間授業としています。さらに明治34年には土木科を工学校と改称し、大正7年には建築科を増設、第2次世界大戦が終るまで概ねこの形態が続きます(注6)。
攻玉社の変遷から、竹内は、昼間部に入学し、夜間部を卒業したと思われます。勤務しながらの通学のため、卒業までに時間がかかったのでしょう。
注5)豊田穣『夜明けの潮』(新潮社、1983年)
注6)『攻玉社百年史』(1975年再版)
●辞職の理由●
竹内が勤務していた時期の灯台建設数は、明治21年~25年は22基、26年~30年は34基、31~35年23基の合計79基、明治2年~35年までの総数132基の約60%が建設されており、大変な仕事であったことが分かります。
灯台局を辞めたのは、灯台建設のような、全国を渡り歩く仕事をいつまでもしていてはだめだと思ったからだと言いますが、「だめだと思った」理由は、ご子息もご存知ではありませんでした。ある灯台技師に関する述懐を見ると、その技師は、「・・長いあいだ燈台のような孤立したところで、陰気な仕事をしていたために、はなはだ明朗性を欠き、仕事もあまり知らず、しかも係員を指導監督する能力を持たなかった」ことや、「若いときから仕事をよい加減にしていたので、仕事に通」じないという、職場の環境が指摘されています(注7)。これらから、このような技師になってしまってはだめだと思ったのではないかと推測されます。竹内は、大阪へ出ます。
注7)竹田米吉『職人』(工作社、1975年)
■来阪■
大阪に来たのは、灯台建設に従事する親類から逃れることが先決でした。来阪時、大阪における建築界のボス的存在であった建築家茂庄五郎を訪ね、一面識もないのに就職の斡旋を依頼したところ、茂は竹内を大阪市役所に紹介してくれたそうです。当時、大阪市は第5回内国勧業博覧会(明治36年)の準備で忙しかったことも、幸いしたのかも知れません。ただし、市役所では臨時職員であったようです。
大阪に縁者はいなかったそうですが、後年ご子息に、「山あり、川あり、そして海ありのこんな風光明媚な所は他所にはない」と、語られていることから、阪神地方に対するあこがれ的な気持があったと思われます。
●第5回内国勧業博覧会●
第5回内国勧業博覧会は、第4回(京都、明治28年)と比較して、敷地で約2.3倍、観覧者は約4.7倍の規模、多くの施設が設けられました(図2、注8)。

竹内は、植物園の温室(中央部右側機械館手前)の設計を担当しましたが、資料がなく、東京の新宿御苑にまで温室を見学に行っています(図3)。この天王寺植物園の温室は、博覧会施設の遺構でしたが(図4)、取り壊されました。


博覧会の跡地は、明治42年に天王寺公園となり、その西部に「新世界」が誕生し、通天閣とルナパークが開業したことは、第96回で紹介しました。図2の植物館は、図4と外観が異なりますが、開園した公園の温室は変わりがありません。奥は美術館でしょう(図5)。

ところで、第4回内国勧業博覧の際に創建された平安神宮は、博覧会会場に隣接していました(図6)。左奥の「応天門」と疎水の間に大鳥居、両脇に美術館などがある、現在の施設配置から考えられないくらい、施設が密集して配置されています(図7)。


注8)図2:『明治大正大阪図誌第11巻大阪』(筑摩書房、1978年)、図5: 『明治大正大阪市史』、図6:『明治大正大阪図誌第10巻京都』より転 載。図7:グーグルマップに加筆。
■閑話休題■
天王寺公園植物温室撤去の記事を読み(昭和61年[1986]2月21日)、投稿したところ、同様の投稿とともに掲載されましたので紹介します(図8)。何でもかんでも闇雲に「残せ!」とは言いませんが、歴史や文化に対する愛着がもう少しあっても良いのではと、今でも思っています。
