大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-14坐摩神社
祭神:生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神
所在地:〒541-0056大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号
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南御堂西側の渡辺筋に面して位置する坐摩神社は(図1)、神功皇后が新羅討伐より帰還された際、淀川南岸の大江田蓑島(のちの渡辺)に坐摩神を祀ったことに始まるとされます。
図1
平安時代の『延喜式』神名帳には、摂津国西成郡の大社と記されており、その読みは「サカスリ」「ヰカスリ」とあります。坐摩神社のホームページ(以下HP)では、土地または居住地を守りたまう意味の居所知(いかしり)が転じた「いかすりじんじゃ」を正式名称としますが、一般には「ざまじんじゃ」と呼ばれています。
■江戸時代の様相■
豊臣秀吉の大坂築城により淡路町に移されますが、寛永年中(1624~44)に現在地に遷座しました。『摂津名所図会』(図2、寛政8~11年=1796~98、以下図会)の本文にも、「西成の惣社にして往古は一郡一社の神社」とあり、本社のほか、摂社(田蓑神社・神功皇后神社)、末社(猿田彦社・稲荷社・八幡社など九社)、神楽殿、絵馬舎などが掲げられ、さらに「社務の住所の北を渡辺町といふ」とあることから、神社が渡辺町に立地することが分かります。
図2
境内入口の明神鳥居をくぐると、正面に拝殿・本殿、左手に末社・摂社、右手に絵馬殿・神楽殿などが確認されますが、「末社七□」の最後の一文字と、「稲荷社」右側の文字がかすれてよく読めませんが、「猿田彦社」と思われます。
切妻屋根の拝殿は、平側[ひらがわ]の軒に唐破風[からはふ]、その上に千鳥破風[ちどりはふ]が設けられています。弊殿に続く本殿の屋根も妻入りの切妻屋根です。なお、明神鳥居とは、反りのある上部の笠木と下部の島木、内側に傾斜した両側の丸柱、柱を繋ぐ貫などで構成された、最も多く存在する鳥居です。
境内には多くの参詣人や茶店などが描かれ、賑わっている様子が窺われます。この寛政期の賑わいは幕末まで続きます。『浪華の賑ひ』(安政2年=1855)には、摂社・末社・神楽殿・絵馬堂、社前には店が連なり、軍事講釈咄小屋などの小屋があります。
さらに、「坐摩の前條[まえすじ]」と呼ばれる前面道路には、南北数町にわたって古着屋が並び、「坐摩の前の古手屋」として有名であると記されています。明神鳥居の右手の、着物らしい物が描かれた店が古手屋でしょう。上部の新古今「もろ人の ねかひをみつの 浜風に 心涼しき しての音かな」は、「よみ人しらす」ではなく、『愚管抄』の著者慈円という天台宗の僧です。
■近代の様相■
明治4年(1871)の太政官布告により、全国の神社が官社・諸社・無格社に分けられます。さらに官社は、宮内省が幣帛を奉献する官幣社と国庫から奉献される国幣社、諸社は府県社・郷社・村社に分類されます。
官社には大・中・小の社格があり、順に官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社となりますが、官幣中社と国幣大社ではどちらが上かという規定はないようです。また社格の「昇格」が行われました。戦後、社格は廃止されますが、「旧社格」として掲げられています。
坐摩神社は、明治5年に大阪府社に列せられ、昭和11年(1936)に官幣中社に昇格した際に造営された新社殿が昭和20年の戦災で焼失し、昭和34年に「鉄筋コンクリート造で戦前の姿のままに復興」されました(HP)。
現社殿の形態が昭和11年の新社殿と同じとすると、昭和11年以前の境内の景観はいつまで遡れるのでしょうか。図2は、『図会』が成立した寛政10年頃の景観と思われます。それ以後の大坂では、天保8年(1837)と文久3年(1863)に大火災がありました。
前者は大塩平八郎の乱によるもので、被災地は天満が中心です。後者は、坐摩神社裏の西横堀川の南部に掛かる新町橋東詰から出火し、北部では本町・安土町などが被災しましたが、坐摩神社は被災をまぬがれていますので、寛政期の景観が昭和11年の新社殿造営まで継続された可能性があります。現社殿を見てみましょう。
1)三輪鳥居
正面に立つ鳥居は「三輪鳥居」や「三つ鳥居」などと呼ばれます(図3)。
図3
「三輪鳥居」は大神神社(旧官幣大社、奈良県)に設けられたもので、本殿にかわるものとして神聖視されています。その形態は、両側の柱が内側に傾斜しない明神鳥居の両側に小さな鳥居を設けたもので、現在の鳥居は明治17年(1884)に完成しています(『建築大辞典第2版』)。
一方、坐摩神社の「三輪鳥居」は、両側の柱が内側に少し傾斜しています。これはどういうことか、もしかして、新社殿の担当者が大神神社の「三輪鳥居」を参考にしながら設計したのではないか、などと妄想してしまいます。これと似た話があります。
千早赤阪村の建水分神社[たけみくまりじんじゃ](重文、旧府社、)の摂社南木神社が、昭和9年の室戸台風で社殿が崩壊し再建された時のことです。設計を担当した大阪府社寺課は、社殿を官幣社に準じて設計し、ことに拝殿(図4)については、「石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿」(図5)を参考にしたといいます(注1)。
図4
図5
とすれば、官幣中社に昇格した坐摩神社の新社殿造営に際し、担当者が官幣大社の鳥居の意匠を参考に設計した可能性があるのではないかと思うのですが、如何でしょう。
注1)拙稿「千早赤阪村の建築文化財建水分神社と赤阪小学校講堂」(『大阪春秋』平成30年春号、No.170)
2)拝殿・本殿など
拝殿は、入母屋屋根[いりもややね]の平側の軒先に大きな唐破風が設けられています(図6)。
図6
唐破風の下をみると、上段の虹梁[こうりょう]中央部の大瓶束[たいへいづか]、笈形[おいがた]のほか、輪垂木[わだるき]などがみられます(図7)。
図7
これらの部材は、木造の形態を遵守していますが、大瓶束表面の曲面処理、笈形内部の文様、溝が彫られた舟肘木[ふなひじき]、軒裏の垂木の省略などに新しい工夫が感じられます。なお、同じ形態の舟肘木が難波神社拝殿にもみられます。
本殿は大きな樹木に隠れて見えにくいのですが、よく見ると、拝殿同様、入母屋屋根・平入りであることが分かります。境内の右手には、春日造りの末社が並び、厳かな空間が形成されています(図8)。また、境内西部の陶器神社(図9)は明治41年に靱から移転してきました。ここでの陶器市が夏の風物詩となっています。
図8
図9
こうして見ると、近世の景観が維持されてきた坐摩神社は、昭和11年の官幣中社昇格を機に造営された新社殿によって、入母屋屋根で構成された豪壮な近代神社の景観に変貌したと思われます。
■行宮
祭神:豊磐間戸神、奇磐間戸神
所在地:〒540-0033大阪市中央区石町2丁目2-15
創建時の社地は、大江田蓑島(のちの渡辺)などと呼ばれた淀川の南岸で、近世以降は八軒家とされ、現在の石町[こくまち]に比定されています。現在この旧地は行宮(図10)とされています(注2)。坐摩神社の所在地の「渡辺」は、元の地名が移されたことによるもので、そのため全国の渡辺・渡部姓などの発祥の地とされています。当宮には、神功皇后が新羅より帰還の際に休息されたと伝わる鎮座石が残されています(図11)。
図10
図11
「石町」について、『図会』には「御鎮座石あるによつての名なり」と記されています。
注2)『図会』には「夏祓の神事に神輿を御旅所へ渡して・・」とあり、江戸時代には御旅所と呼ばれていました。
■勧請された坐摩神社
祭神:阿須波大神、波比岐大神
所在地:〒574-0022大東市平野屋1-9
宝永元年(1704)の大和川付け替えにともなう、深野池の新田開発を請け負った平野屋又右衛門が坐摩神社から勧請したものです(図12)。
図12
当初は新田会所内に位置したようですが、後に池・築山で仕切られ地元民が参詣できるようになりました。平野屋新田会所は近年取り壊されましたが、坐摩神社は健在です。
【用語解説】
・平:棟と平行な側。
・唐破風:向拝などに設けられる、中央部が起り[むくり]、両端部が反っている破風。
・千鳥破風:屋根面に設けられた切妻の破風。
・入母屋屋根:寄棟屋根と切妻屋根を合わせた屋根。
・虹梁:社寺建築などに用いられる、中央部に起りをつけた梁。
・大瓶束:瓶[へい](口が小さく、胴が細長い徳利形の壺)の形をした束。
本屋・唐破風などの妻に用いられる。
・笈形: 大瓶束の左右に施された装飾。
・輪垂木:唐破風などに用いられる湾曲した垂木。
・舟肘木:柱頭上において、桁などを直接受ける肘木。
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