東淀川区自転車巡り-地域のお宝さがし-70
■江口の里■ 所在地:大阪市東淀川区南江口3丁目(以下市・区省略)
「江口の里」の江口は、『摂津名所図会』(寛政10年[1798]発行、以下図会)によると、「淀の川尻大江の口」に由来し、淀川と神崎川が結ばれた平安時代初めには、西国からの入船が当地に碇泊し、川船に乗りかえる川港として機能しました。多くの船と人とともに遊女が集まり、「遊女の里」として栄えましたが、鎌倉時代になると、港の機能は堺へ移り、近世には大坂が「海内の大湊」となり、江口は衰微します。
●寂光寺(江口の君堂)●
「江口の君堂」(以下君堂)は通称で、正式名称は寂光寺です。同寺は、元久2年(1205)宝林山寂光寺として建立されますが、元弘、延元の乱で焼失し、正徳年間(18世紀前期)に再建されました(注1)。当寺は、西行法師と遊女江口の君との歌物語で有名ですが、『図会』には、「江口の君の事ハ西行上人の選集抄のみにて外に見るものなし」とあり、江戸時代の様子が窺われます。その景観は、淀川と堤防の段差が少なく、「君堂」は一段高い敷地に建立されています(図1)。現在は堤防が高く、「君堂」は低い位置に見えます(図2)。初めて「君堂」を見たとき、屋根は寄棟の錣葺(しころぶき)と思いましたが、よく見ると、寄棟屋根に下屋がついた形式でした。錣葺き屋根は図3のような形式です。
図1 江口の里(『摂津名所図会』)
図2 寂光寺本堂(江口の君堂)
図3 慈眼寺本堂(大東市)
現在の江口は、港町として栄えた面影も遊女の里の雰囲気も、まして西行と江口の君との歌物語を連想させる気配も感じられませんが、工場と住宅に囲まれたエアポケットに立地する「君堂」の豊かな緑と静けさだけが歴史を伝えているようです。
注1)三善貞司『大阪史蹟辞典』(清文堂出版、1986年)p256
■逆巻の地蔵尊■ 所在地:大桐5丁目
「逆巻の地蔵尊」は、元来淀川沿いの逆巻村(現在の豊里大橋付近)に弘化3年(1846)に建立されました。同村付近は、淀川の流れが激しく、船の転覆などにより多くの犠牲者が出たため、その冥福を祈願したのが始まりです。『淀川両岸一覧』(文久元年[1861]発行)によると、「逆巻より平田までの間淀川の内に流作ありて川條二流にわかる是を新川といふ」とあり、中州によって新川が分流していた様子が分かります(図4)。
図4 逆巻の地蔵尊『淀川両岸一覧』
淀川の流れが激しいのは、本流と支流がぶつかりあうためであったのでしょう。続けて同書には、「北のはしに新しき石の地蔵尊あり、是ハ近年水死の供養に建る所なり」とあり、川面から見える大きな地蔵尊が描かれています。
図4では、淀川をのんびり上下する船の様子が(手前は三十石船でしょう)が描かれていますが、新淀川ができる以前の淀川は有名な暴れ川で、明治18年(1885)の大洪水がきっかけで、同31年から改修工事が始まり、新淀川が設けられて洪水の恐怖は無くなりましたが、それにともない逆巻村は川底になり、「逆巻の地蔵尊」は大正12年(1923)に当地に移され、人々に親しまれるようになりました(図5)。周辺の手入れがよく行き届き、地域の人々の優しさが感じられます。
図5 逆巻の地蔵尊
■松山神社■ 所在地:小松4丁目
「松山神社」の創建は、延喜元年(901)に、太宰府に流された菅原道真が、淀川を下った際に当地の景観と詩を吟じ、直筆の御真像を村民に与えたので、後に社祠を構えて氏神として崇めたのが始まりといいます。明和初年頃(18世紀後期)に境内を拡張し、社殿の修築が行われた際に天満宮の額を掲げ、「小松の天満宮」などと呼ばれていました。明治4年に「松山神社」と改称されますが、同42年、大隅神社(図6、大桐5丁目)に合祀されて廃社になります。地域の人々の願いにより、昭和19年(1944)に拝殿と社務所を四條畷神社から移築して再建されました(注1、図7)。
図6 大隅神社
図7 松山神社拝殿
初めて拝殿を見た時、入母屋屋根の美しさに見とれ、仕上げは薄板を重ねて葺いた「杮葺」(こけらぶき)と思っていましたが、改めて見ると「銅板葺」と思われます。「君堂」の屋根形式も勘違いし、「修行が足らんなあ」と自戒しています。
■瑞光寺■ 所在地:瑞光2丁目
瑞光寺は、聖徳太子の創建と伝えられていますが、建武年間頃(1334~1336)に火災で焼失します。寛永20年(1643)に僧天然により「指月寺」として復興されました。享保14年(1729)に寺号を天然山瑞光寺と改め、幕末の弘化3年(1846)には、本堂・書院など多くの施設が建てられていました。これらの施設は、昭和20年6月の大阪大空襲で焼失しましたが、昭和59年に本堂が鉄筋コンクリート造で再建されました(注1、図8)。
本堂前の「弘済池」には、鯨の骨で造られた「雪鯨橋」(鯨橋)が架けられています(図9)。
図8 瑞光寺本堂
図9 雪鯨橋
『摂津名所図会』には、「瑞光寺堂前にあり宝暦年中紀州熊野浦より寄附しけり初めハ橋板ともに鯨にてありしが近き頃朽損じて今ハ石板となる高欄左右鯨の腮[あご]なり」「難波一州の名奇也」とあります。宝暦年間の住職知忍が、捕鯨が行われていた紀州太地の漁民から送られたお金と鯨の骨を用いて、橋を造って冥福を祈ったそうです。しかし、橋板まで鯨の骨とすると、渡るのに細心の注意が必要だと思いました。
■亀岡街道・道標■ 所在地:菅原1丁目付近
亀岡街道は、大阪市内高麗橋(中央区)を起点とし、丹波亀岡(亀岡市)に通ずる街道です。高麗橋→天神橋筋→長柄から淀川を渡ります。土手を東に進むと、赤川鉄橋に至ります。この鉄橋には、線路に並行して木製の「人道橋」(赤川仮橋)があり、人が渡ることができましたが、大阪東線の開通のため、平成25年(2013)に廃止されました。
人道橋の北詰を右折すると亀岡街道で、町家や道標が残されています(図10・11)。道標の右面に刻まれた文字は、右端:「左りずいかうじ[瑞光寺]」中央:「観世音菩薩」、右端:「大坂講中」、下部:「同吹田江口」、左面には。「右大坂[以下不読]」と読めます。
図10 亀岡街道の町家(酒店)
図11 道標
ここから少し坂を下ると、正面に古民家、その脇に道標、土塀が残り、亀岡街道の景観が窺えます(図12・13)。道標の正面に刻まれた文字は、「厄除安産正観世音菩薩瑞光寺道是□十六□」と読めます。
図12 古民家(屋根は元茅葺)
図13 古民家脇の道標と土塀
■閑話休題■
筆者が以前、東淀川区を自転車で巡った時には、伝統的な家屋(民家・町家)や、街道の雰囲気がよく残されていましたが、今回巡ってみると、伝統的な家屋はマンションなどに建て替わるなど、景観が大きく変わり、30年という時間の流れを感じました。
一方、寺社に大きな変化はなく、寺院は築地塀など、神社は瑞垣など囲繞されていました。築地塀で明確に区画された寺院の境内は、内に開かれた空間で、境内全体が聖域と考えられます。それに対し、玉垣でゆるやかに区画された神社の境内は、外に開かれた空間で、本殿・拝殿などで構成される空間が聖域で、境内はオープンスペースになっています。そのため、神社の境内は公園的な性格を備え、地域に緑を提供するとともに、訪れる人々に憩いと安らぎを与えてくれるのです。両者の境内空間の質の違いに興味を覚えます。
その他、「お地蔵さん」など祀るお堂も目にしましたが、堂周辺の手入れがよく行き届き、地域の人々の優しさが感じられました。
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